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史料にみる西原の大山講

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 西原には、大山講の史料三点が残されており、明治四五年から昭和五一年までの大山講の代参日、代参者の人数、御師に対する支払金、お札の数がわかる。なお、御師は全期間にわたって内海政雄である。
 三点のうち、一番古い史料は「大山敬慎講社代参帳」で、明治四五年から大正九年までの記録になっている。これによると、この期間の西原の大山講では代参者は一人で、代参日は、明治四五年が四月一八日、大正四年と九年が四月一四日であるが、これ以外は四月一五日である。お札は、全講員に配るお札が「丸形」と記され、明治四五年から大正三年が四〇枚、大正四、五年が四二枚、大正六年から九年が五〇枚となっている。また、全期間において辻札二枚と尺木(大正九年のみ玉串)一枚の記述がある。辻札は、ムラ境に立てるお札であり、尺木は代参者がいただくお札とみられる。なお、御師に支払う「納金」は大正九年が二円であるが、そのほかは全期間にわたって八〇銭である。
 次の期間の史料は、「大山敬慎講社結集簿」で、大正一一年から昭和一九年までの記録になっている。この期間の代参の様子は、前述の「大山敬慎講社代参帳」の明治四五年から大正九年までの様子と変化は少ない。代参日は、四月中旬が基本である。二三回の代参のなかで、四月一四日から四月二二日の間の代参は一九回であり、全体の約八割を占め、中でも四月一五日は八回ともっとも多い。お札については、全講員に配るお札を「講中大札」「講中札」「丸形」として記され、全期間において五〇枚となっている。また、全期間において辻札二枚(昭和一九年は一枚)、玉串一枚の記述も同様である。御師に支払う「納金」については「坊入」と記される事例が多く、大正一一年から昭和二年までが八〇銭、昭和二年から昭和一〇年までは二円となっている。昭和一一年については、前年まで坊入とあった欄に「日帰二円」とあるが、同様の内容と考えられる。また、昭和一二年から一五年については札料として二円ないし三円が記されている。昭和一六年から一九年については、坊入と札料が別々に記されており、合計金額が四円五〇銭から八円六〇銭と増額していく傾向である。特に昭和一九年については、明細がやや詳しく記されている。これによると、講中札が五〇枚で五円、札料は一〇銭でこれに対応するものと考えられるお札は辻札一枚と玉串一枚、坊入は一人日帰りで三円五〇銭と記されている。
 最後の期間の史料は「大山敬慎講社結集簿」で、昭和二六年から昭和五一年までの記録となっている。この期間の代参は、これ以前の代参と比べて大きく変化がみられる。まず代参の人数が当初二人ずつで始められている。そのうえ、昭和三三年から四八年は四人(昭和四四年のみ六人)、昭和四九年から五一年は三人というように変化する傾向である。お札については、講中大札が当初五〇枚であるが、わずかに増減し、最大五二枚になるものの最終年には五〇枚に戻っている。辻札二枚は変わらず、玉串の枚数は代参者の人数分なので、代参者の増減に伴い変化している。また、この帳面で見られるようになるのが、御師に対する米の奉納である。史料の上では、昭和二七、二八、三一年には奉納の記載があり、昭和三三年~三八年、四二年、四九年、五〇年には米奉納一升の記録がある。御師に支払う金額も、物価上昇期であったこともあり、昭和二六年に坊入七二〇円、札料五〇〇円、辻札料二〇円の合計一二四〇円であったものが、昭和五一年には、札料五〇〇〇円、講金一五〇〇円、辻札料二〇〇円、灯明料五〇〇円の合計七二〇〇円となっている。