山崎の宿には、大正七年に結成し、大正一二年に伊勢参宮を行ったとみられる伊勢講の史料「伊勢大廟参拝講員名簿並規約醵出金領収扣」(折原家文書四七一)がある。この史料には、伊勢講の概要を知ることができる規約が記されている。この規約は次のとおりである。
吾等伊勢大廟参拝講ヲ組織シタルニ依リ下ノ事項相守可申候也
但 講員過半数ノ讃成ヲ得ルニアラザレバ猥リニ下記事項ヲ変更シ又ハ本講ヲ解散シ得ザルモノトス
一、本講ハ伊勢大廟参拝講ト称シ旅費積立ノ目的ヲ以テ各員毎月(六月ヲ除キ)弐拾五日ヲ限リ金五拾銭宛(拾弐月ニ限リ金○○トス)醵出シ大正七年参月ヨリ仝拾弐年弐月迄満五ケ年間之ヲ継續スル事
二、醵出セル金額ハ世話人ニ於テ(世話人中ノ名義ヲ以テ)郵便貯金局ニ預ケ入レ積立終了后出発ノ期ニ至リ各員へ拂戻スモノトス
三、不得止事故ノタメ積立終了后参拝團ニ加盟不可能ノ者生シタル時ハ醵出セル金額ノミヲ出発期ニ至リ拂戻ス 半途積立中止ノ者ニ対シテモ亦同ジク醵出セル金額ノミヲ出発期ニ拂戻ス事
四、世話人ハ森田惣七金子喜三郎折原精一郎仝謹之助酒巻善兵エトシ集金ノ任ニ當ル事
五、出発及其ノ期日ハ積立終了后講員一同協議ノ上之ヲ定ム
大正七年三月
この伊勢講は、伊勢大廟参拝講と称し、大正七年三月から六月を除く毎月二五日に積立てを行って、伊勢参宮の費用を貯蓄するものである。また、史料には集金の領収控が記されており、大正七年三月から大正一一年一二月まで集金を行っていたことがわかる。なお、集金した講金は杉戸郵便局に預けている。講員一一人のうち最後まで講金を払い続けたのは八人で、途中で講金の支払いを行わなかった三人分の元金を引いた合計額は三二六円八〇銭となり、これを八人で分割して一人あたり四〇円八五銭を受け取っている。元金は三五円であり、元金との差額は利息である。
一方、明治二〇年の「伊勢太神宮参拝旅費控簿」(百間西原組文書一七一)には、この年に行った西原の伊勢参宮往路の旅程が記されている。
二月一七日 馬喰町三丁目
二月一八日 東海道藤沢宿
二月一九日 相模国足柄下郡湯本村
二月二〇日 東海道沼津宿・桔梗屋
二月二一日 原駅
二月二二日 久能山、静岡
二月二三日 日坂駅
二月二四日 浜松
二月二五日 赤坂駅
二月二六日 名古屋
二月二七日 佐谷より桑名(船)、四日市
二月二八日 松阪宿
三月一日 明星・二見浦
三月二日 太々神楽
三月四日 龍大夫に坊入
このように、この当時は徒歩による参拝と考えられ、主として東海道を利用し、おおよそ半月を費やして伊勢に向かっていることがわかる。これによると、伊勢では龍大夫という御師の世話になったことがわかる。