明治四四年生まれの根岸ます氏は昭和五年に産婆実地試験に合格して産婆になった。当時は電話が普及しておらず、夜中に「お産ですから、ついて来てください」と家族が呼びにきて、ろうそくランプを自転車から提げて駆けつけたが、真暗な夜道で、前を行く人の姿を見失い、あやうく川に落ちそうになったりした。また、お産が重なったときのために自宅に黒板を置き、現在の居場所を記しておいたりした。
5-4 嘱託産婆講習会 大正15年6月
5-5 産婆実地試験及第之証 昭和5年
産婆がする産前の仕事は、妊娠五か月を迎えた妊婦に腹帯の巻き方を指導することで、それがその妊婦に対する産婆としての初めての仕事であった。その後は一か月に一回検診し、血圧・腹囲・心音などを記録した。往診用のかばんには血圧計、聴診器、腹囲を測る巻尺、尿中蛋白検査用薬が入っていた、また初めての検診では出産予定日の算出もした。しかし妊婦の中には検診料が払えないため、特に心配事がなければお産まで世話にならないといった家も多く、また姑に内緒で診察を受ける人もあったという。
5-6 往診用かばん
産後はお七夜まで毎日、生児の沐浴にいった。このときはへその緒がよく取れるよう、沐浴のあと、水気を取り薬をつけてバンソウコウで止めた。また産婦の診察や消毒も行った。お産当日は悪露が多いが日が経つにつれ、少なくなる。産婦の丁字帯の脱脂綿の交換をした。これは産婦が出産前に準備していたものである。また、授乳時に乳房を消毒するためのほう酸水の消毒綿、また、産婦の消毒用にはクレゾールの消毒綿を作り置いていった。産後はへその緒が落ちるまで七日間通う。「手が足りないのでもう少し来て欲しい」との依頼があったときや、へその緒が太くてなかなか落ちないときなどはその限りではない。助産の賃金は最終日にもらった。
5-7 助産用かばん
5-8 助産道具
明治時代、日清戦争の援護活動として、兵員の家族の出産は遠近にかかわらず無料で出産をとりおこなった須賀村の産婆がいた。(『埼玉県史料叢書』)
西粂原のある家では、お腹の居住まいが悪くなると、白岡町の「野田の産婆」(日下部氏)に行った。