三三九度のあとは宴席に移り、一人ひとりの前にお膳が並べられる。このとき、嫁は中座して鎮守様に参りに行く家もある。そのあと、嫁は訪問着にお色直しして酒をさしてまわった。家によっては嫁が何回かお色直しする家もあり、そのたびに酒の燗をしなおしたり、吸物を出したという。そのため、吸物椀は出席者の人数の何倍も用意しなくてはならなかった。また、酒は「飲み足りない」といわれないよう、たくさん用意した。ただし、近年は「泡になる」といい、ビールは出さなかったという。宴たけなわになると舞が出たり、歌が出たりして、深夜に及ぶこともある。出席者から「もうたくさんです」という声が上がると、オショウバンはお開きの挨拶をし、茹でたうどんが振舞われた。うどんは「長く続くように」という意味で出され、一方、そばは「切れる」といって祝儀には出さなかった。こうして宴席が終わったあと、嫁は片付けを手伝った。
東粂原のA家では昭和二五年の祝儀では一日目は親戚と近所の男性たち、二日目は近所の女性たち、三日目は大工職人たちを呼んでお祝いした。一番盛大なのは一日目で、二日・三日目は小さい折と家で作った料理を出した。