綿の栽培は、綿布織りが行われなくなったあとも昭和一〇年代まで続き、収穫された綿は半纏や布団綿に利用された。
綿は「アカッポロの痩せた土地じゃいけない」といい、肥えた土壌の畑で栽培された。播種は春に行われ、秋になって西風が吹きはじめると「綿がエンダ(熟した)」といって実が弾け、白い綿が現れる。これを摘んで乾かし稲の脱穀調整が一段落をするとクリダイ(繰り台)を使って種を取り除いた。クリダイは6-1のような道具で、二本のローラーの間へ綿を通すと種が手前に落ち、綿はローラーの隙間を通過して向こう側に落ちる。通す際には、綿を湿らせてから灰を振り掛けて揉んだ。こうするとローラーに引っ掛かりやすく、種がよく取れるからである。
6-1 クリダイ
種を取り除いた綿は、綿屋で打ってもらった。綿屋は町内の方々にあり、時期になると農家を回って綿打ちを行った。座敷にユミ(弓)を吊し、その弦に綿を引っ掛けてはトッペントッペンと弾いて膨らませる。そして、全部を打ち終えると座敷に広がった綿を寄せ集め、ユミで弾きながら四角い形に整えた。ユミを用いた綿打ちは、大正時代まで行われた。昭和時代に入ると杉戸町の綿屋が機械打ちを始め、多くがそこへ頼むようになった。
綿から糸を紡ぐには綿を棒状に巻いてその先をひねり出し、イトグルマ(糸車)の錘(つむ)に差したシノ竹のクダ(管)にくくり付ける。そして、左手に綿を持って手前へ引き、同時にイトグルマを回して撚りを掛け、クダに巻き取る。この繰り返しで木綿糸を紡いでいった。