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賃機織り

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 昭和初期までは、農閑期に機屋からの下請けで賃機を織る者が多かった。また、女手の多い家や規模の小さい農家では、田植えや麦刈りの時期を除いて一年中賃機織りを行った。
 賃機には絹と木綿があり、絹は足利銘仙、木綿は布団側、裏地、白木綿、ガーゼ、晒(さらし)、シボ入りの木綿縮(ちぢみ)、綿セルであった。糸は、ヤド(宿)から家々に配られた。ヤドは機屋と織り手の仲介をつとめる家で、金原、西原、中、須賀など各地区にあった。ヤドには定期的に機屋が来ており、その日に合わせて織りあがった反物を持っていくと機屋から単数に応じた織り賃が支払われた。そして、帰りにはまた新たな糸を預かってきた。
 金原では遍照院裏のK家がヤドをつとめており、ここは屋号をイトトミ(糸富)といった。また、西原のヤドはU家であった。K家やU家には、岩槻市慈恩寺の機屋が布団側や裏地の糸を持ってきた。布団側は、縞や格子であった。裏地はほぐし捺染で、緯糸を織り進むうちに文様が現れた。
 西粂原の島耕地ではA家がヤドをつとめており、ここへ機屋が木綿縮の糸を持ってきた。木綿縮は一機が一〇反掛けくらいであり、織りあがったものを一反ずつに切ってヤドヘ持っていった。
 須賀の金剛寺耕地ではM家がヤドをつとめており、ここへ岩槻市の機屋がガーゼや晒の糸を持ってきた。
 中でヤドをつとめるY家には、昭和七年ごろまで足利市助戸の機屋「つかせん」が綿セルと足利銘仙の糸を持ってきた。綿セルは、綿糸を用いたセル風の織物で、無地と縞と柄物があった。また、足利銘仙は、文様を染め付けた経糸に無地の緯糸を織り込んだもの(6-5)で、綿セルに比べて織るのに技術が必要とされる。したがって、腕の良い者に賃機を頼んだ。

6-5 足利銘仙(宮代 小山氏所蔵)

 「つかせん」の糸は東武伊勢崎線の貨車で杉戸駅に運ばれ、これをY家が取りに行った。Y家が賃機に出す家は、中地区をはじめとして宮代町全域におよび、町外では春日部市内牧や岩槻市鹿室にも出した。「つかせん」は定期的にY家を訪れ、賃金の精算を行った。
 賃機織りには、木綿、絹を問わず能率の良い足踏み式のセンバイバタシ(専売機)が使われた。センバイバタシは織り手が所有し、そのほとんどを金原のS大工が製作した。S家は、地元からセンバイヤと呼ばれていた。また、ヤドの主人は逐次織り手を訪ねてセンバイバタシの調子を確認し、調子が悪ければ修理も行った。そのため、出かける際には工具を入れたガッサイブクロを提げていったものである。
 センバイバタシを据えて機織りを行う場所をハタバ(機場)といい、これには納屋や木小屋が当てられた。ハタバには、直射日光が当たらぬ方が良い。そこで、北側に明かり取りの窓を設け、南側を背にしてハタシに座った。正月には、ハタシの上にオソナエ(お供え餅)を供えた。