終戦直後の衣料不足時代には、東京方面から古着屋の行商が来た。風呂敷に古着を包み、これを片方の肩に引っ掛けて売り歩いたので、その格好からカタショイと呼ばれていた。持ってくる古着は女物のよそゆきが主体で、量こそ多くないが質は良かった。そのため、嫁入りが決まった家では、娘に持たせる着物に用立てたという。当時は食料不足でもあったので、支払いは米との物々交換であった。
終戦直後には杉戸町に交換所ができ、ここへ米を持っていくと布地や古着と交換をしてくれた。ただし、当時は米が統制であり、米を持っていくことは違反とされたので、米とはいわず「白い小豆を持っていく」といった。交換所には、襦袢用のレースの袖や新生児のソデナシなど布地や古着がいろいろと掛かっており、その下に「白い小豆」の目方を書いた紙が下がっていた。