衣類を賄うのは女性の大切な仕事であり、学校を卒業した娘の多くは、一一月ごろから三月ごろまでの農閑期に裁縫所へ通ってお針(和裁)の技術を習得した。
裁縫所の生徒数は、時代やところによって異なるが、東のI家には最盛期に三〇人くらいが来ていた。また、西原のM家には、松の木島、柚の木、中島、金原、前原、春日部市内牧など、広い範囲から習いに来ていたという。
修業年月はミハル(三春)と称して三年であり、これでひととおりの着物を縫えるようになった。中には、四年通う者もあった。教材は生徒が用意し、新しい反物を裁つのと洗い張りをした着物を縫い返すのが半々くらいであった。また、裁縫所は仕立て屋も兼ねていたので、腕の上達した者はよそからの頼まれものを縫うこともあった。
裁縫所では、本裁ちの単物から縫いはじめた。運針や一つ身の縫い方といった基本的なことは、すでに学校の授業で習っているからである。単物は、脇の縫い込みを止めるのが難しかった。また、袷は褄をきれいに仕上げるのが難しく、「褄(妻)じゃ一生苦労する」といった。毎年修業期間の終了時には進級試験が行われ、一年目には単物のノラジバン、二年目には浴衣、三年目には袷羽織、そして、四年目には綿入れの夜具(夜着)を一日で縫い上げれば合格となった。
裁縫所には月謝を納め、そのほか三月、五月、九月の三節供には幾らかの謝礼を届けた。
二月八日の針供養には、皆で食事を作って食べた。また、ときにはワラビ摘みやシジミ捕りなどのレクリエーションも行われた。師弟関係は家族的であり、生徒の嫁入りが決まると師匠は着物を仕立てて祝いに贈ったものである。