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麦飯

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 日常に白米飯を食べるようになったのは昭和四〇年ごろからであり、それ以前はほとんどの家が麦飯を食べていた。麦飯とは、米に大麦を混ぜたご飯である。大麦の割合は家によっても異なるが、一般にはタバと呼ばれる水田地域に比べてオカバの畑作地域の方が高かった。金原、和戸、須賀といった畑作地域では、ハンマゼ(半混ぜ)と称して米と大麦が半々なら上等とされ、用いる米は畑で栽培されたオカボ(陸稲)が主体であった。また、小作制度が実施されていた戦前までは米二分に大麦八分の麦飯も炊かれ、これは粘り気のないポロポロとしたものであったという。タバの麦飯は、七分三分(米七分に大麦三分)や六分四分(米六分に大麦四分)であり、大麦の割合が米に勝ることはなかった。ただし、戦争中から終戦直後にかけての食料難時代には、主食の供出を余儀なくされたことから手持ちの米が僅かとなり、タバにおいても大麦を混ぜる割合が高くなった。
 大麦は、古くはイスス(石臼)で碾割(ひきわり)にしたものを混ぜ、これをヒキリメシ(碾割飯)と呼んだ。大正末期から昭和初期には精米所に押し麦を作る圧搾機が導入されたので、多くが押し麦を混ぜるようになった。押し麦は、碾割に比べて喉越しが滑らかであったという。
 炊飯は朝晩の二回で、朝には三升から五升炊きの釜で昼飯の分までまとめて炊いた。井戸の流しでといだ米をコメアゲザルにあげ、これを釜に入れて水を張り、竃(かまど)に掛けて炊く。水の分量は米一升に対して一升二合であり、図23のように、米にテッピラ(掌)を当ててクルブシ(節)が隠れる程度に水を入れれば二合増しとなった。
 朝飯がすむと、残った麦飯をオヒツ(オハチ)に移しておいた。オヒツは6-13のようなヒノキの桶で、麦飯の上に布巾を被せてから蓋を閉めた。夏はご飯が腐りやすいので、蓋の代わりに寿司の巻き簀を被せたり、竹籠を被せて通気性を良くした。また、暑い盛りには、ご飯を笊(ざる)にあけて布巾を被せ、これを縄で井戸に吊しておいた。井戸は、冷蔵庫の役目を果たしたのである。冬は、6-14のような藁製のオヒツイレにオヒツごと入れて保温をした。

図23 水加減の量り方


6-13 オヒツ


6-14 オヒツイレ