一年を通して魚を購入するのは田植えの時期が最も多く、ほかには節分にイワシ(メザシ)、恵比寿講にサンマ、歳暮に塩ジャケ(鮭)を購入した。日常には、ときどきイワシを購入する程度で、不足分は川魚で補われた。イワシは肥料になるほど大量に捕れたので、値段が安く、手軽に購入することができたのである。
田植えの時期は、麦刈りや春蚕などの農作業が多忙を極め、誰もが体力を消耗する。そこで、ニシン、なまり節、塩サバ、サンマの開き、塩イカなどを購入し、これらを食べて栄養をつけた。田植えには、手伝いの者たちに食事を振る舞ったので、ニシンは束ごと、塩サバやサンマの開きは箱ごと購入する家が多く、魚屋もそれをあてにして売りに来た。ニシンは干してあるので、これを米の研ぎ汁や水に浸して柔らかくしてから味噌煮にした。また、なまり節はナスやキヌサヤといっしょに砂糖醤油で煮つけた。塩イカは、水に浸して塩抜きをしてから焼いて食べた。
暮れには、歳暮鮭と称して世話になった人へ塩鮭を贈る風習があり、正月三が日には塩鮭の切り身を焼いてご飯のおかずとした。腹にたくさんの塩が詰まっていて長期間の保存が利くので、ダイドコロに吊したり、四斗樽に入れて味噌部屋で保存しておき、田植えにはこれを焼いておかずに出した。月日がたつと塩気が増すので、塩抜きを兼ねてゆでる家も多かったという。
農村部には、週一回から月三回くらいの間隔で定期的に魚屋が売りに来ていた。金原の魚屋は、カネシチの屋号を染め抜いた印半纏を着て魚箱を積んだリヤカーを引き、昭和初期まで地元の金原や姫宮などの得意先を回っていた。杉戸駅(現東武動物公園駅)前の魚屋は、宮代町内の農村部に多くの得意客を持ち、須賀や逆井方面まで広い範囲を売り歩いていた。西粂原には幸手市の魚屋が来ており、昭和二〇年代には御成街道沿いの新田から魚屋が来るようになった。冷蔵設備のない時代には、魚屋が持ってくるのは干物や塩物が中心であった。また、野菜や果物も持ってきており、夏にはスイカの売れ行きが良かった。終戦後には西原にS商店が開店し、ここでは冷蔵庫を備えて鮮魚を扱った。また、保冷設備の整ったトラックで鮮魚を売りに回ったので、農村部でも次第に鮮魚を購入する家が多くなった。