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味噌

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 味噌作りは、多くの家で昭和三〇年ごろまで行われていた。その後、市販品の普及に伴って衰退したが、近年では健康食品のブームもあって添加物を使用しない自家製の味噌作りが復活している。和戸沖の山では平成五年から埼玉県農業改良普及センターの指導を受け、I家がヤド(宿)となって味噌作りを行っているという。
 味噌は、古くは大麦の麹を用いた麦味噌であったが、近年復活した味噌は米糀を用いた米味噌である。
 味噌の仕込みは、大豆の収穫後の九月から一一月ごろに行われる。あまり寒くなると麹が発酵しにくいので、仕込みが遅れる場合は先に麹を作っておいた。
 麹の作り方は、大麦をついて皮を剥がしたものをセエロ(蒸籠)で蒸し、コウジバコ(6-18)にあけて人肌程度に冷めたところで麹のタネ(菌)を振る。タネは、杉戸町や和戸の薬局から購入された。大麦とタネを両手で十分に混ぜたら、コウジバコの中央でボッチ(塊)にし、土間に藁を敷いた上へのせて莚を被せて寝かせる。温度が上がらないようであれば、湯たんぽを入れて温める。こうして一晩くらい置いて熱が出たら、ボッチを平らに広げて表面に指で筋をつけ、熱を分散させる。さらに、三日から一週間寝かせると発酵が進み、黄色い花が咲いて麹ができあがる。

6-18 コウジバコ(和戸沖の山 I家所蔵)

 麹ができたら、図26のように庭に竃を築いて大釜を掛け、薪をくべて大豆を煮る。トマリカケといって一晩中火を絶やさずに煮続け、大豆を親指と小指で大豆を挟んで潰れれば煮あがりとなった。これを臼と杵でついて潰し、アメミズと称する大豆の煮汁を加えて硬さを調節する。適当な硬さになったら麹、塩とともに桶に入れ、大きなシャクシで混ぜる。また、男性が猿股一丁で桶に入り、素足で踏みつけながら混ぜることもあった。十分に混ざったら、四斗樽ヘ一握りずつ叩きつけるように入れていく。叩きつけることで空気を遮断し、雑菌の侵入を防ぐのである。こうして全部を入れたら表面に油紙を被せ、蓋を締めて密閉する。ビニールが普及してからは、油紙に代わってビニールを用いるようになった。

図26 大釜の掛け方

 塩の分量は、大豆一斗五升(煮た状態で二斗)、大麦一斗五升(麹の状態で二斗)に対して八升から一斗であり、長持ちをさせるにはトジオと称して一斗の塩を混ぜた。また、仕込む際にはダイコン、ナス、キュウリ、ショウガなどを入れ、これらは口開け時に飴色の味噌漬けとなった。
 仕込んだ味噌は、ダイドコロの北側や物置の奥に設けられた味噌部屋に保管され、三年後に口開けされた。三年間熟成させた味噌は、塩が枯れて赤い色になっていた。
 なお、味噌を仕込む日には、隣近所ヘミソマメ(味噌豆)を届ける風習があった。ミソマメは煮た大豆のことで、これを重箱に詰めて届けると、その家からも味噌を仕込む日にミソマメが届けられた。砂糖醤油で煮て食べることが多かったが、香ばしいのでそのまま食べてもおいしかったという。