7-1 鎌倉街道 昭和60年代 (須賀付近)
鎌倉街道は、河川の多い平野部では自然堤防や舌状台地(ぜつじょうだいち)の縁辺部を道路として利用することが多かったようである。町内の鎌倉街道の道筋も同様であった。
奥州方面から古利根川左岸(下総国)の自然堤防上を南下した中道は、高野の渡しで古利根川を渡り、武蔵国太田荘の須賀郷に入った。高野の渡しから自然堤防上を南下し、真蔵院の南側から東粂原の鷲宮神社に抜ける道が、鎌倉街道であったと考えられている。さらに、台地上を高岩・野田(いずれも白岡町)を経て岩槻方面に通じていたと考えられる。また、東粂原の鷲宮神社から南下して爪田ケ谷(つめたがや)、太田新井(いずれも白岡町)方面へ抜ける道も鎌倉街道であったと伝えられている。東粂原の鷲宮神社の南側に「宿屋敷」と呼ばれる集落が、鎌倉街道と思われる道筋に沿って南北に形成されていることや、爪田ケ谷にも「宿」と地名があることなどから、これが鎌倉街道であったとも考えられる。また、西光院から姫宮神社、そして道仏・須賀方面へと抜ける道も鎌倉街道であったと伝えられている。