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東武鉄道の開通

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 明治二八年、東京と養蚕地帯である上毛地方を結ぶため、東京本所(台東区)―千住(足立区)―粕壁―羽生―館林―足利の総延長五二マイル(八三・七キロ)の東武鉄道の敷設が計画された。

7-9 昭和55年の杉戸駅の様子(東武博物館所蔵)[1]


7-9 昭和55年の杉戸駅の様子(東武博物館所蔵)[2]

 そして、その効果は栃木・群馬・埼玉県の貨物を輸送するだけではなく、総武鉄道(JR総武本線)・成田鉄道(JR成田線)・房総鉄道(JR外房線)を通過する貨客が東京湾や上武地方へ行くために便利になるということである。収支については、「起業目論見書(きぎょうもくろみしょ)」(『東武鉄道六十五年史』)によると、総収入二二万七七六〇円で、旅客収入が一三万六六五六円、貨物収入が九万一一〇四円で、旅客六〇パーセント、貨物四〇パーセントと見込んでいた。純利益一三万二八六〇円を見込んでおり、収益の上がる路線であると考えていたようである。
 北千住―久喜間を第一期工事として、明治三一年に着工し、翌三二年八月二七日に北千住―久喜間二五マイル(四〇・一キロ)が開業し、イギリス製の蒸気機関車が運行された。開業当時は、北千住・西新井・草加・越ケ谷・粕壁・杉戸・久喜の七駅が設置され、客車と貨車の混合列車(客車三輌・貨車一輌)が一日七往復運行された。北千住発下り列車・久喜発上り列車とも、午前六時一〇分、八時一〇分、一〇時一〇分、午後一時、三時、五時、七時発であった。同年一二月には、新田・蒲生・武里・和戸の四駅が、翌三三年三月には竹ノ塚駅が設置された。

7-10 東武鉄道杉戸駅の機関車 昭和33年7月(中島氏所蔵)

表7 東武線運賃一覧 大正7年7月
区間特等並等
草加、蒲生間16銭8銭
蒲生、越谷間14銭7銭
越谷、武里間17銭9銭
武里、粕壁間16銭8銭
粕壁、杉戸間19銭10銭
杉戸、和戸間10銭5銭
和戸、久喜間14銭7銭
久喜、鷲宮間16銭8銭
鷲宮、加須間21銭11銭
加須、羽生間24銭13銭
草加、浅草間45銭25銭
粕壁、浅草間93銭52銭
久喜、浅草間1円3銭28銭
羽生、浅草間1円52銭86銭

 明治三五年に改正された運賃表(『東武鉄道六十五年史』)によれば、明治三五年当時、北千住―杉戸間の所要時間は六〇~七〇分、運賃は二五銭であった。
 なお、開業の翌年の明治三三年の乗降客は、一日平均一六六人。主な貨物は、積み込むものが、米・麦・瓦などで、一か月平均二〇〇トン。降ろす貨物は、肥料・砂利・雑貨などで、一か月平均五〇トンであった。