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駅弁の製造販売

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 登茂ゑ屋の住まいは須賀村で、東武日光線の開通にあたっては線路敷設に大いに尽力した。そのため、東武鉄道から杉戸駅での弁当類販売を許可され、駅の近くに仕事場を構えて昭和四年に駅弁の製造販売を開始したという。

図7 杉戸駅東口周辺の商店~昭和初期から10年ごろ~

 駅弁の販売方法は、ホームでの立ち売りであった。売り子の男性は、7-15のような印半纏(しるしばんてん)姿で上りと下りのホームに立ち、折り畳み式の台に駅弁や飲み物をのせて電車を待った。そして、電車が入ってくると停車時間を利用して窓越しに販売をした。また、電車の本数が少なく待ち時間が長いので、乗換え客にも駅弁は良く売れた。
 商売は軌道に乗り、登茂ゑ屋では板前とその助手、売り子四、五人、女中三、四人を雇って弁当作りに追われた。また、寿司の出前も行ったので、その配達人も雇っていた。

7-15 売り子の出立ち~昭和4年~(百間 中村氏所蔵)

 戦争中には米が統制となったために弁当を作ることができず、駅弁販売は中止された。そして、終戦後に統制が撤廃されたあとも弁当作りは復活せず、パンや飲み物や菓子を仕入れて売るだけとなった。