戦前までの百間新道は、前述したように商店や民家が道路の北側のみにあり、その家並みは図12のようであった。道路の南側は、踏切に近いところに数軒の家並みが見られる程度で、それより西側は一面が畑であった。また、旧県道の西側から、隣接する道仏にかけては水田が広がっていた。
家屋の造りは、商店や民家を問わずほとんどが木造の平屋建てであり、屋根はトタン葺きか瓦葺きであった。草屋根は旧県道西側に建つ三軒長屋だけで、その葺き替えは西原の屋根屋が行った。
百間新道沿いの土地は、その多くが道仏の農家の所有であり、一部山崎の農家が所有するものもあった。また、農家は借家も持っており、木造平屋建ての借家を指してシモタヤと呼んだ。
百間新道で商売を営む者は、その多くが農村部の出身者であり、出店の際には土地を購入したり借用して店舗を建設した。また、農家が所有する借家で商売をはじめ、軌道に乗ってから土地を購入する者も多かった。