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和戸宿

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 江戸と日光を結ぶ御成道沿いに位置する和戸宿は、江戸時代に小宿場として発展した。消防小屋の前に立つ庚申塔(7-21)には「武蔵国埼玉郡百間領和戸村宿中」の文字が刻まれ、往時の面影を忍ばせている。

7-21 和戸宿の庚申塔

 明治三二年、東武鉄道が北千住と久喜間に開通すると、御成道の踏切付近に和戸駅が開設された。和戸駅には幸手方面からたくさんの乗客が訪れ、和戸宿は大いに賑わった。御成道には、和戸駅と幸手方面を結ぶ乗合馬車が往来し、和戸宿には馬宿を営む家もあった。大正末期の和戸・幸手間の運賃は、一〇銭くらいであったという。また、和戸駅前にはM運送店があり、貨車で運ばれた荷物はここで馬車に積んで幸手方面へと運ばれた。
 大正八年には、和戸駅が現在地に移転された。これに伴って宿から須賀村役場前を経て駅に通じる停車場新道が開通し、その沿道にも商店や民家が増えていった。
 大正一二年九月一日の関東大震災では、和戸宿も多大な被害を受けた。木造の家屋はその大部分が倒壊し、震災後に残ったのはまんじゅう屋(S商店)だけであった。そして、震災後の復興を果たして再出発したのも束の間、昭和四年には東武日光線が開通して幸手駅が開設され、幸手方面からの客足が途絶えた。
 現在の和戸宿は、中央部を県道春日部久喜線が横切り、かつてオウカンと呼ばれた御成道は途中で分断されている形となっている。そこには宿場の面影は薄れ、交通手段の変化により自動車が激しく往来する幹線道路と化している(7-22)。

7-22 現在の和戸宿通り

 和戸に住むM氏(明治四四年生)は、大正、昭和、平成と時代を越えて和戸宿の変遷を見つめてきた。図13は、氏の記憶をもとに作成した昭和初期の和戸宿と停車場新道の家並みであり、これを解説したものが表8である。
 農家の屋敷は、草屋根の母屋を中心に物置や木小屋などが配置され、大きな農家には土蔵もあった。また、屋敷裏には竹山や雑木林があり、震災の際には多くの者が竹山に逃げ込んだという。

図13 昭和初期の和戸宿と停車場新道の家並み

表8 昭和初期の和戸宿と停車場新道の家並み
1うろこ屋 (肥料・米穀商)39篠原大同医院
2キンゴサン (大福・寿司を製造販売)40オシンサン (小間物屋)
3シンネムサン (農家)41A家 (農家)
4シンスズキ (牛乳屋/乳牛を飼って牛乳を販売)42和戸村駐在所
5K家 (農家)43庚申塔
6アンマサン (K家所有の二軒長屋)44消防小屋
7菓子屋 (K家所有の二軒長屋)45シモジユク (農家)
8そうめん屋 (素麺・干しうどんの製造販売)46焼き芋屋
9K材木屋47Y薬局
10まんじゅう屋 (S商店/米穀・肥料商)48唐傘屋
11床屋49モト大工 (母親は髪結い)
12シュク (S本家)50越後屋酒屋
13せんべい屋 (煎餅・団子の製造販売)51センノウタビヤ (足袋屋)
14ダイマルサンチ (農家)52N家 (農家)
15油屋 (油締め業)53ミシン屋
16八百久 (雑貨屋)54浅間神社
17えびす屋 (魚屋)55料亭みはらし屋
18自転車屋56ジームサン (K家)
19K材木屋・資材置き場57Y家
20下駄屋 (下駄・箪笥の製造販売)58鳥屋
21タカサゴヤ (ランプ油の引き売り)59籠屋 (竹細工職人)
22ブリキ屋60雷電神社
23ヤエモンタビヤ (足袋屋/うろこ屋所有の二軒長屋)61 I 産婆
24建具屋 (うろこ屋所有の二軒長屋)62須賀村役場
25畳屋63ツネ大工
26左官屋64ヤオタケ酒屋
27料亭喜楽屋65ガチャマサ (雑貨・小間物の引き売り)
28豆腐屋66クヘイサン (農家)
29 I 大工 (兼業農家)67石炭屋 (石炭・練炭・薪・炭の販売)
30 I 呉服屋68ハシゼンサン (駄菓子屋)
31Y家 (農家)69サツマ屋 (農産物の引き売り)
32ボタン屋 (ボタン・ホック・真田紐の製造)70せんべい屋
33カドイモチ (農家)71石炭屋倉庫
34セットコ (床屋)72鳥屋
35W菓子屋73S家 (農家)
36K家 (農家)74新聞屋
37まんじゅう屋物置75駅長舎
38和戸キリスト教会76たばこ屋