ビューア該当ページ

消防組

703 ~ 706 / 772ページ
 明治初期の消防組織は、各宿村ごとに江戸時代のままの自警的な火消組が存在し、各町村の統一性はなかった。明治八年三月の太政官布達に「出火ノ節ハ巡査出火ノ合図ヲ為シ一般ニ知ラシム且燃失ニ罹(かか)ル家ハ其家ヲ助ケ消防ノ事モ勤ムヘシ消防人、已ニ集マルニ至レバ勉メテ乱雑及窃盗ヲ防ク事ニ注意スヘシ」「同断ノ節第一二其ノ人ヲ救出シ次ニ書類金貨等ヲ出スヘシ又官庁其他区長等ノ宅ハ書類第一二取出スヘシ」と規定され、出火場での警察官の執務心得が示されている。
 埼玉県では、明治一九年二月消防組組織編成規則を定め、消防組は警察署または分署所轄内で一町村一組または数組を編成し、その名称はその町村名を冠称すること、組員は原則として一七歳以上、四五歳以下で、消防組編成は所轄署を経て県庁に届け出て認可を受けることなどを定めている。ただし、このときに町域の消防組が具体的にどのように編成されたかは不詳である。
 その後、明治二七年二月九日政府は、全国的に消防体制を画一化する目的をもって消防組規則を公布し、従来市町村または一部の有志者に委任したりしていたが、一切の私設消防団体を禁止し、知事の職権で設置することが明示され、消防組はこれにより公設となり、警察の直接支配下に入ることになった。
 百間消防組は、杉戸警察署管内に属し、明治二七年一一月一九日に設置され、組頭一人、部長九人、小頭二八人、消防手四〇六人の計四四四人で組織されている。
 宮代町合併前の百間村、須賀村当時の消防組についてみてみたい。それぞれの村には消防組が置かれ、それぞれの地区で若い衆がその任に当たっていた。消防組に入団する年齢は二〇歳ごろから三〇歳くらいが一般的であるが、辞めるときに後任がいないと続けて行うこともあり、五〇歳ごろまで務める人もいる。
 長男は分団長や地区の先輩などから声をかけ、誘われて入団する。なかなか後継者が見つからないときには適当な人に頼み込むこともある。辰新田では、消防団団員の新旧の親睦を深めるために、消友会という組織を作り、現在でも集まりを設けている。
 当時の消火に使用する備品は、トビグチ、手押しポンプが中心である。トビグチを持って消火に当たったりするが実際は火事の後始末を行うことが多かった。

8-9 消防団の様子 昭和2年1月(島村氏所蔵)


8-10 消防団の様子 昭和初期(矢部氏所蔵)

 八河内では、毎月一日と一五日に消防小屋に集まって、行事の話を聞く。一一月の競技会に備えてホース点検などの練習をした。
 消防団は百間村、須賀村当時から設置されていたが、昭和三六年六月一〇日に宮代町消防団の結団式が行われた。これは、従来の組織の再編成による合理化を図るために編成されたものである。組織は表5のようである。

図2 消防組編成規約認可願(折原家文書No.239)

表5 昭和36年の消防組織
分 団備 品団 員地 域
第一分団三輪ポンプ一台一五名字東、中、金原、逆井、山崎、西原本部
第二分団三輪ポンプ一台一五名字道仏、新道、青葉会、辰巳会、蓮谷、辰新田
第三分団一部三輪ポンプ一台一一名桜木町、弁天町、旭町、稲荷町、中央、若宮、川島
二部四輪ポンプ一台  九名東、川端、姫宮
第四分団三輪ポンプ一台一五名東粂原、西粂原、須賀(辰新田を除く)
第五分団三輪ポンプ一台一五名和戸、国納

 このほかに自警消防を東、西原、山崎、須賀、西粂原、沖の山の器具置き場に配置した。
 こうした消防団活動の様子について、沖の山の消防小屋と当番についてみてみたい。消防小屋は内部が二つに区切られており、向かって左側には手押しの消防ポンプやトビグチなどの消防用具を収納した。右側は夜番の詰所として使用した。役場の消防署ができる以前は沖の山の一班から九班までの各班が順まわりに三人ずつ夜番を出し、冬の間は毎晩七時ごろ、九時ごろ、一二時ごろの三回、沖の山全体を火の用心に回った。三人が一組となり、一人が提灯を持ち、一人が拍子木をたたいて、「ご用心願います」と言いながら歩いて回った。詰所では中央の囲炉裏で火を焚き、やかんをかけて湯を沸かし、長椅子に腰かけてお茶を飲んだ。夜番だから酒は飲めなかった。

図3 昭和36年の消防団の担当区 概略