それは、今からおよそ千百六十年程のむかし、都が奈良から長岡京、そして平安京へと移されて間もないころのことです。桓武天皇の皇子に良峰安世(よしみねのやすよ)という人がおりました。この安世王には美しい一人の娘がありました。
この宮目姫、東国の秀才滋野国幹に伴われて下総国に行こうとして、武蔵国百間の里、紅葉ヶ岡という所にたどり着きました。ころは天長元年長月(八二三年旧暦の九月)、山中の紅葉の眺め美しく浜の砂と調和してそのみごとさは言葉につくせない程でした。姫は、この景色に見とれ国幹と共に馬のたづなを止めて地主権現の祠のそばで休み景色を眺めておりました。そうこうしているうちに、いつしか陽は西に傾き、霜気が肌に寒く突然姫は激しい癪に見舞われました。都から遠く離れた片田舎では何の手当のなすすべもなく、夜半ごろ姫はとうとう息を引き取ってしまいました。国幹は、天に祈り地に伏し泣き叫んだが姫はついに生き還りませんでした。随従の家臣に慰められ泣く泣く姫の亡骸を岡の西の辺に埋め下総へと向いました。このころには、岡に近くに住む人もあり、後に「姫の家」と呼んで花などあげる者もあったという事です。その後、天長五年(八二八)のころ、慈覚大師が故郷の下野へ下るとき、姫の事を聞き回向して里人に言って祠を建て姫宮明神と呼んだと言うことです。
これは、姫宮神社に古くから伝わる話で、ここに出てくる「紅葉ヶ岡」という地名は姫宮神社のある付近をさします。(『みやしろ風土記』)