◎埼玉県内の鎌倉街道
おもな鎌倉街道は、鎌倉から化粧坂を越えて境川流域を北上し、武蔵国府(府中)から関東山地の東麓を北に進んで高崎に出て、信濃、越後へと抜ける上道、鎌倉の山内から中央部を北に向い、奥州方面に行く中道と、武蔵金沢から東京(江戸)湾を東に向い隅田川を渡って下総・上総に通じる下道であった。
◎宮代町内の鎌倉街道
宮代町内には、高野の渡しで古利根川を渡り、自然堤防上を南下し、真蔵院の南側から東粂原の鷲宮神社に抜け、台地上を岩付方面に向う道と、東粂原の鷲宮神社から爪田ヶ谷、太田新井方面へ抜ける道があったと伝えられる。
◎関東御教書(みぎょうしょ) (称名寺所蔵、神奈川県立金沢文庫保管)
鎌倉幕府は、称名寺に対して高野川(たかのがわ)(古利根川の高野付近の別称)の橋の権利を先例通り認めた。称名寺は古利根川左岸の下河辺荘の領主であった。
◎高野渡付近の様子(平成4年頃)
この地は、鎌倉街道中道と古利根川が交差する渡河点で、交通の要所であった。
◎堂山下遺跡 (写真:毛呂山町教育委員会提供)
付近に「宿浦」「市場」などの地名が残る毛呂山町の堂山下遺跡では、発掘調査により側溝を伴う道路状遺構と、溝で区画された屋敷地、二三棟の掘立柱の建物跡などが確認された。鎌倉街道上道筋にあった。
◎堂山下遺跡 航空写真 (写真:埼玉県立埋蔵文化財センター提供)
鎌倉街道上道筋が見える。
◎足利氏満充行状 (「安保文書」横浜市立大学学術情報センター本館所蔵)
小山義政の反乱により小山氏は滅亡し、鎌倉公方に没収されて直轄領となっていた「上須賀郷」は、永徳2年(1382)12月25日、小山義政討伐に功のあった武蔵七党丹党の一族で、安保郷(児玉郡神川町)を本拠とする安保憲光に与えられている。
◎小山朝政譲状 (「小山文書」小山氏所蔵、写真:小山市立博物館提供)
下野国の守護小山朝政が、寛喜2年(1230)に嫡孫長村に所領を譲り渡した譲状。
「武蔵国 上須賀郷」とあり、「上須賀郷」が小山氏に支配されていたことがわかる。
「武蔵国 上須賀郷」とあり、「上須賀郷」が小山氏に支配されていたことがわかる。