ビューア該当ページ

いざ、鎌倉

30 ~ 31 / 117ページ
 鎌倉時代、将軍(鎌倉殿)と主従関係を結び、御家人と呼ばれた武士たちは、「いざ鎌倉」といわれるように、非常時に鎌倉に馳せ参じた。彼らの通った道が鎌倉街道である。宮代町内を通る鎌倉街道は、「中道(なかつみち)」などとよばれ、東北方面から古河を経て、幸手-高野-須賀-久米原-高岩(白岡町)-岩槻-鳩ヶ谷-川口から武蔵府中を経て鎌倉に至った。
 

◎埼玉県内の鎌倉街道

 おもな鎌倉街道は、鎌倉から化粧坂を越えて境川流域を北上し、武蔵国府(府中)から関東山地の東麓を北に進んで高崎に出て、信濃、越後へと抜ける上道、鎌倉の山内から中央部を北に向い、奥州方面に行く中道と、武蔵金沢から東京(江戸)湾を東に向い隅田川を渡って下総・上総に通じる下道であった。
 

◎宮代町内の鎌倉街道

 宮代町内には、高野の渡しで古利根川を渡り、自然堤防上を南下し、真蔵院の南側から東粂原の鷲宮神社に抜け、台地上を岩付方面に向う道と、東粂原の鷲宮神社から爪田ヶ谷、太田新井方面へ抜ける道があったと伝えられる。
 

◎関東御教書(みぎょうしょ) (称名寺所蔵、神奈川県立金沢文庫保管)

 鎌倉幕府は、称名寺に対して高野川(たかのがわ)(古利根川の高野付近の別称)の橋の権利を先例通り認めた。称名寺は古利根川左岸の下河辺荘の領主であった。
 

◎高野渡付近の様子(平成4年頃)

       この地は、鎌倉街道中道と古利根川が交差する渡河点で、交通の要所であった。
 

◎堂山下遺跡 (写真:毛呂山町教育委員会提供)

 付近に「宿浦」「市場」などの地名が残る毛呂山町の堂山下遺跡では、発掘調査により側溝を伴う道路状遺構と、溝で区画された屋敷地、二三棟の掘立柱の建物跡などが確認された。鎌倉街道上道筋にあった。
 

◎堂山下遺跡 航空写真 (写真:埼玉県立埋蔵文化財センター提供)

鎌倉街道上道筋が見える。

 

◎足利氏満充行状 (「安保文書」横浜市立大学学術情報センター本館所蔵)

 小山義政の反乱により小山氏は滅亡し、鎌倉公方に没収されて直轄領となっていた「上須賀郷」は、永徳2年(1382)12月25日、小山義政討伐に功のあった武蔵七党丹党の一族で、安保郷(児玉郡神川町)を本拠とする安保憲光に与えられている。

 

◎小山朝政譲状 (「小山文書」小山氏所蔵、写真:小山市立博物館提供)

下野国の守護小山朝政が、寛喜2年(1230)に嫡孫長村に所領を譲り渡した譲状。
「武蔵国 上須賀郷」とあり、「上須賀郷」が小山氏に支配されていたことがわかる。