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戦人(いくさびと)の世

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 十五世紀後半以降、いわゆる下克上(げこくじょう)が広まり、実力で地域権力を確立した戦国大名が出現した。武蔵国では、天文十五年(一五四六)の河越夜戦で、関東管領(かんとうかんれい)上杉氏を破った北条氏が勢力を伸ばし、宮代町域は、河越夜戦後に北条氏と同盟関係を結んだ岩付太田氏の支配下にあり、その後、北条氏の直接支配を受けるが、この時期の百間地域では、鈴木雅楽助(すずきうたのすけ)という在地領主の活躍がみられる。
 

◎鈴木氏由緒書(系図) (鈴木氏所蔵)


◎鈴木氏由緒書 (鈴木日向守(ひゅうがのかみ)軍功記) (鈴木氏所蔵)

 四代日向守重門が北条氏の家臣として、天正9年~天正16年頃まで戦ったことなどが読み取れる。
 

◎鈴木氏墓碑(左)、鈴木氏墓碑(拓本)(右)

 鈴木日向守重門が北条氏直の下で手柄を立てたことなどが記されている。また、先祖は野見宿禰の遠縁で中安姓を名乗り、また穂積とも名乗ったことなども記されている。
 

◎北条氏政印判状写 (「武州文書」(独)国立公文書館所蔵)

 天正13年(1585)、鈴木雅楽助は、北条氏政から軍役として鑓持一人と騎馬武者一人が課せられた。
 

◎北条氏房印判状写 (「武州文書」(独)国立公文書館所蔵)

 天正15年(1587)、鈴木雅楽助は、北条氏房から石倉の小奉行に申し付けられた。雅楽助は、石倉城(前橋市)で大奉行の指揮下で行動したと思われる。
 

◎北条氏房印判状写 (「武州文書」(独)国立公文書館所蔵)

 天正16年(1588)、鈴木雅楽助は、北条氏房から岩付城の大構(城下を囲む土塁の内側)に兵粮を納めることを命じられる。
 

◎伊達房実判物写 (「武州文書」(独)国立公文書館所蔵)

 天正18年(1590)、鈴木雅楽助は、北条氏房の家老伊達房実から岩付城の大構へ兵粮を運ぶように命じられている。豊臣秀吉の小田原攻めに対する臨戦体制の様子がうかがえる。
 

◎岩付城図