[翻刻]

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[目録]

 
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(昭和十四年写本)
        百間始まりの大縁記     画像2
一.抑百間の始まりのいはれを詳しく
たづぬるに、其頃浪人五.六人着たり
て寺村東神外より西神外の間に
百姓五.六軒立居ける。或時五人
集まりて庚申待を致し居ければ明
方たれ共知らず四拾ばかりの男一人
立寄て申様には、是は何故有て各     画像3
々様方集りたもうやと云う。一座の者
共答て申には今夜は庚申待を仕
ると言えば彼の男答てお幾人に被
成候と申せば一座の者共答えて五
人にて仕候と言ばかの男申様には、
庚申待は五人にて致さぬもの成り
何と私を差添え六人にて御待に成
候とへと申せば一座の者是を聞て然
ば其衆も講中に可入るとありけれ
ばこれ仕合と足を洗て座敷へあが
りて四方山の物語りにて夜も更け
鶏も鳴きければ火をあげて暇乞いし
て我が家々に立帰りける。然ば在郷
の事なれば廻り宿に致しければ彼     画像4
の男の當番にあたりければ其日暮
方に講中の者を迎に来りければ
所の者申様には其衆は何国の
者なると申せば彼の男答へて私は
龍宮の者と言ふ それより彼方此方
を呼び集めて行きける下の谷より逆
井まで続き入ると思ひ五人の者共
彼の男に問い入りける あれは何様
なりと申せばあれは私の屋敷に御
座候と言えばさてさて扨々良き御林なりと
言うて其れより二、三丁あがりて長屋
門有り門より内へ入りければ御地の老
人七八人袴羽織にて下座平らに禮
をのべて玄関に入りそれより屋敷     画像5
案内致され扨座に付煙草盆
を出し茶菓子を出し茶を出して
亭主言ふ様は各々様方は
始てお出で被成候へば座敷を御覧な
されと言ふて先ず大廣き御座敷
に入りにける満々たる座敷なるゆえ
五人の者問ひけるは畳何畳敷
に御座候と言ふ 亭主答へて是
は千畳敷なりと云ふ 次の間を御
覧なされと言ふ 次の間へ入り是は
何畳敷に御座候と申せば是は五
百畳敷きなりと云う 其他間敷余程
多く茶の間料理の間台所なり 然に
一人勝手へ行きけるに何やら十二三の     画像6
娘のようなるものを菰に包み料理の間へ持
参して云ふ様は、先づ此れを料るべし
と云ふ 右の男これを見て座敷へ
立かへり此の由を右五人の者へ話
し確に十二三の娘なり 必ず食べ申
間敷と相談いたし 扨それよ
り吸肴にてあいのおさいのと云ふて数
盃頂きそれより膳を出し二の膳に
て扣る者も有り 其中に一人是は国
へ帰りて話の種にいただき申と言い
ければ鼻紙の間に入れそれより御膳を
さげければ又四方山の物語りて夜も
更け鶏も鳴きければ火をあけて帰
ると言ふ 亭主聞て今夜暇乞して     画像7
亭主又尼沼道まで見送りて
暇乞して立分れ 我が家々にたち
かへる。明朝八兵衛が妻に向て
言ふやうは鼻紙に入たるものは知らぬ
かと言へば女房我ぞんじたかと言
ふ 其頃は八兵衛が娘三才になる
八兵衛言ふ様は此の子たべたかも知
れず 然るに此娘鼻紙に入置人魚
食べる頃は人皇四拾六代孝謙天皇
の御代天平十三年秋の末方行基
菩薩此所に修行に来りければ道
辻にて八十ばかりの老人に出合かの老
人行基菩薩に向いて頼みけるは
御僧見掛けて頼度事あり 此所     画像8
は都に遠し 志ゆけんほふづの所なり
何卒弥陀を刻みて御堂を建立
頼入候 とう出来候はば御苦労
ながら薬師を五社権現に勧請し
て賜れば我此所の守神にたつべし
かえすがえすも頼入るとかき消ように風
吹きたもふ 依て行基菩薩が弥陀
を刻始め然るに八兵衛が娘五六才
になりける 毎日此所へ来て邪魔に
なる 行基菩薩此娘に向かひて言うや
ふは 如何に娘我が来ては此佛成就
せぬ程に明日より来るべからず我は此
方の言うことを聞かば我を明は辯財天
と勧請して得さずべしと言いければ     画像9
此娘聞き分けて不来 然るに逆井
原若狭の船着にて船頭共が原へ
井戸を掘て置と云う 昔は此所を
若狭井戸とす 其後は人々逆井
逆井といいならし明て此所へ大船
着ければ子供二三人来りて遊び
けるが八兵衛が娘六七才に成けれ共
船の舳先へ行とばをかむりて伏けれ
共船頭共知らずして船を出しければ
帆をあげ乗出し暫時が間に三四拾里
乗ければ彼の娘起きて出る 船頭共
是を見てやれ娘が居ると言共出船成
しは止る事を得ず 先若狭国小濱町
に着ければ近所に子持たずの者是を     画像10
聞いて養子に貰い度由様々に所望す
故養子に遣しける然るに此娘だけ長
じて八百年の齢を保っと云う 若狭国
小濱町に八百姫と祭るなり 竜宮より
持来せし人魚を食したる故なり
 然るに行基菩薩弥陀を刻て老
人を五社大権現と勧請致し八兵
衛が娘を弁才天と勧請して所
の者を集めて行基菩薩言う様
は村名は何と言ふを問へば百姓共
村名は未だ無くと云う 行基菩
薩又問へば然ば村境より村境ま
でさほを入れて見よふと言いければ畏
い候と百姓共立合東神外の祓より     画像11
西神外の祓まで百間あり 此由を行
基菩薩へ話しければ行基菩薩
聞届け 然ば今日より村名を百間村
と御申候と言ふ 扨行基菩薩弥陀
は成就致けれ共堂建立難成と言ふ
故常陸国へ立かへり其頃は常陸国
は安部の仲丸殿の御知行にて行基
菩薩は元仲丸殿の菩提寺なる故
に菩薩は仲丸殿へ合て言ふ様は私
修行の先にて老人に頼まれ弥陀を刻
置候が堂建立難成に付何卒堂
建立頼入と言いければ仲丸殿きき届
如何にも建立可致と御普請奉行と
して鈴木日向守忠勝 島村出羽     画像12
守直政両人百間に到着す 其頃は
天平十五年になり弥陀堂出来其年
仲丸殿は禁帝より勅上にて遣唐使
をも仰付る 同勢数多召連て唐へ出
船して唐に着ければ旅宿して明日大
王の御前に出ければ碁将棋双六金
玉の石にて廻り一番を付て仲丸殿の前
に出しけれ共日本に無き事なれば知らず 依て
碁将棋にてせめ殺さる故御家絶断
依て鈴木島村帰らずして百間に住居
す 其後亦きびの大臣へ遣唐使も仰
付数多召連れて唐へ出船して無
事唐に着きければ旅宿致して休みける
然るに其夜仲丸殿の亡魂現れ出る     画像13
 そして申様には某仲丸なり 我も碁将
棋双六を以て征め殺されしなり 貴殿
も明日は碁将ギ双六を以て征められる由
今夜はけいこ可被成と碁将棋双六を
教へける 明る日大王の御前に出ければ
案の定碁将棋双六を出しけれ共
きびの大臣は夜中稽古致し
ければ少しも怯へることなく大王あ
きれて言ふようは名僧を呼び出
し何卒六ヶ敷書を作りて可差出
と申付る 其夜又仲丸殿の亡魂現
れ出て言様は碁将棋はおしえたが
明日は唐で二人となき名僧の作り
たる詩を書くと言ふ 是は我が力     画像14
も不及 其許の常々念づる神佛を頼
べしと云いて消にける さればきびの
大臣は日々に大和の国初瀬寺
の観音いのる誓をかけ頼にける其夜
お告げあり 明日其書差出候共
日の出を待つべし 我等雲に変化
落つべし 雲の落たる所より讀始
めとかく雲歩きに委せとの御告なり
 きびの大臣雲歩きにまかせ讀たり
 依而きびの大臣日本へ帰り碁将棋
双六を始めけり 然に弥陀堂は金谷
原の西の方を海老の嶋の浦に弥陀
が原と言ふ所に建たせたもハ実に
大同元年に西光院建立す 同     画像15
彌陀堂を前に引て西光院の
本堂とす 弥陀堂の跡を出堂
が原と云ふ 寛永元年に西光
院焼ける其灰を山崎へ埋めて
これを經塚と言ふ 同三年に建立す
 弥陀堂の浦(裏)に雷電あり 百間
始りの惣社なり實に岩槻城主
太田道灌なり 然るに北條相模
守氏直 岩槻を征めんとて 大手の
大将は宮の下に陣を敷 搦手の大
将は花泉台に陣を敷 然るに岩
槻の用から浦は新川扣 其の内に
うたり沼有て裏より入る事難成
故大手ばかり強く固め大手の口より     画像16
強く征めけれ共かまはず 然るに雜
兵共沼へ身を投ける 體にして水
底の橋を渡る北條方は華泉台
に矢倉を建て遠眼鏡にて城の要
害を見る目の下に見えるに依て水
底の引橋有る事を見出し一騎当
千の者共騎馬にて荒川を我先にと
乘り抜け抜け打渡り実に鎌倉おう
ぎがやつ上杉彈正定政方より加
勢に来る由を聞ければ是にては叶ふ
間敷と思ひ百間雷電へ祈誓を
なしければのふ志ゆ落て東海道は雷
電にて二日大雨降ると云ふ満水に留
られて遂に二三日逗留する内に北條     画像17
方は裏より乱入底橋を渡りて暫
時加間に討ち落す 道灌叶はすし
て江戸へ逃け行く 北條相模守
殿恐悦あって諸願成就なれはとて
百間雷電へ五拾石の殊印を付
 三尺四方の鰐口を納める今は西光
院の宝物なり 其後代々殊印
御書替の時 寺の殊印になほす
 其の後に十二坊を立る故にあざ名
を寺村と言なり 昔諸役重く廻
状を数度参らし 名主相談の上
村名を百間村と後宿へ譲りしなり。
明治六癸酉年二月写せしを     画像18
昭和十四巳卯年七月再写す
天平十三年より明治六年
まで凡千百三十三年なりと
本年迄千百九十九年なり