島村盛助は明治十七年(一八八四)八月九日に生まれました。宮代町字中にある、緑に囲まれ、門前に立派な椋の木が二本立っている家が生家です。
島村盛助という人は、いったいどのような人だったのでしょうか。まずは盛助が生まれた島村家の系譜についてみてみましょう。
島村家の系譜を知るためには、大変参考になる資料があります。明治四十年十二月に発行された『多少庵俳檀史』という本です。(以降、『俳檀史』とします。)
多少庵とは松尾芭蕉の流れをくむ俳諧結社で、もともとは江戸の深川にあり、他の結社と並び「深川六庵」の一つと称された名流で、『俳檀史』はその歴史や活躍した人物について書かれています。天保八年(一八三七)に、盛助の曽祖父にあたる人が深川から当地に庵を移したことから、埼玉県東部の当地を中心に、北へとその俳風を広めるきっかけとなりました。
多少庵の場合、会長のような取りまとめ役のことを「庵主」と呼びますが、庵主は宗匠(指導者)でもあったので、大変重要な役割を担っていました。島村家の人々の中には、この多少庵において庵主を務めるなど、中心的な存在であった人がいたことから『俳檀史』に記述が見られるものです。
この本には、盛助の曽祖父母、祖父、祖父の兄弟、そして父と叔父など、島村家九名の人についての記述が見られ、特に曽祖父、祖父、父については庵主を務めていたことなどから、逸話や作品などが詳しく書かれています。
次回は『俳檀史』を参考にして、盛助の曽祖父について紹介します。