島村鬼吉の墓石
島村盛助の曽祖父は、通称を新右衛門といい、百間中村の名主でした。芭蕉の流れを汲む名流と言われた多少庵を、深川から当地に移したことをきっかけに俳号を鬼吉と改め、多少庵第四世の庵主となりました。
『多少庵俳檀史』(以下、『俳檀史』とします。)によると、鬼吉については「資性温厚閑雅頗る長者の風あり」とあります。おだやかで情に厚い性格であり、品がよく福徳にすぐれた人であったことが推察できます。このことは多少庵を深川から当地に移す際、江戸六庵の一つとも言われるほどの名流を、田舎に移すことを喜ばなかった人もいて物議をかもしたなかで、「鬼吉資力俳力両つながら群を抜くを以て終に紛議を排してこれを其郷里百間に移せり」とあるように、圧倒的な存在感があったことが想像できます。
鬼吉の風貌については、「躯幹長大容姿整然宛として士大夫の如し」とあります。大柄でがっしりとした体型で、整った顔立ちであったのでしょう。あるとき、江戸に赴き宿をとるにあたり、その宿帳に「鬼吉」と俳号を記しました。旅館の番頭はその名を「おにきち」と読み、地方に知られた侠客であろうと勘違いをしたために、「親分さん」と鬼吉を呼びました。この呼びかけを不満に思った鬼吉は、宿の主人を呼び、このことを話しました。そしてようやく、「ききつ」を「おにきち」と読んだことから侠客と間違えたことがわかり、互いに腹を抱えて笑いあったそうです。侠客に間違えられてしまうような、鬼吉の風貌が推測できそうですね。
天保八年(一八三七)、江戸は両国柳橋の万八楼において、多少庵第四世の嗣号披露が行われました。挨拶の句として披露されたのは、
はらわたのまだ實の入らぬ胡瓜かな
という句でした。それから十八年後の安政二年(一八五五)正月十四日、鬼吉は享年七十一才の長寿をもってこの世を去りました。
世の中に暇申して花のやど
島村家に残る位牌に残る、鬼吉の辞世の句です。
次回は、盛助の祖父について紹介します。