島村梅年

盛助の祖父も通称を新右衛門といい、幕末から明治維新にかけての時期に、百間中村の名主を勤めました。
俳句は父・鬼吉に学び始め、俳号を梅年といいました。父の影響は大きく、梅年もまた大変俳句を好み、いろいろな人と交流しました。鬼吉が亡くなったのちはその跡を継ぎ、多少庵第五世庵主となりました。
『俳檀史』によると、「人となり剛柔中を得て人の長たるに堪へたり。」とあります。
人柄は強さの中にやさしさを持ち、人の上に立てるだけの器量の持ち主である、このような意味でしょう。
梅年がいかに俳句を好んでいたのか、そしてその人柄もわかる逸話が『俳檀史』にあります。
「明治維新区政の創立にあたり梅年身名主役を勤むるに因り、日々杉戸の区役所へ出勤す、常に句帳を懐ろにし公務鞅掌の余暇、孜々として句作に思ひを潜む、一日杉戸本陣に某藩の士宿泊せるに対し、公用の文書を提出せしに誤て句稿を封して贈れり、藩士亦幸に俳道を好む。此稿を見て其風流を慕ひ、其夜自ら来りて梅年を訪ひ、通宵俳を談じ句を連ね、晋秦の好を尽くせりといふ。」
明治維新の新区政の創立の頃、梅年は名主役を勤めていたために日々杉戸の区役所に出勤していた。常に懐に句帳を入れ、公務に忙しいさなかにも暇を見つけては句作に励んでいた。ある日のこと、杉戸本陣に宿泊していたとある藩の藩士に公用の文書を提出すべきところ、間違って句稿を袋に入れて渡してしまった。その藩士は幸いにも俳道を好む人であったため、梅年の句稿を見て彼の風流さを慕い、その日の夜、自分から梅年宅を訪れ、夜通し俳句について語り合い、あるいは句を詠みあって親交を深めたということです。まだ身分制度が残っていた当時、その身分の違いを越え、俳句という共通の話題で親しく交流している様子がうかがえますね。
次回は、盛助の父・繁について紹介します。