島村繁

島村繁島村繁

盛助の父は繁といい、慶応元年(一八六五)二月八日に生まれました。『俳檀史』には、「島村繁は雪操園と号す多少庵中鬼吉の孫にして梅年の子なり」と紹介されています。この一文から、これまで紹介してきた鬼吉、梅年、繁が盛助にとっては曽祖父、祖父、父であることが確認できます。
『俳檀史』によると、「人となりは活発剛毅品位を具ひ貴公子の風あり、心を武道に傾け研鑽年を重ねて名手となり演武場を開き徒を集めて教授す贄を取り門に入る者幾百を以て数ふ、斯道に貢献する所多しとなす」とあります。活発剛毅でありながら品があり、貴公子のような風貌。武道を極めるために研鑽を重ねて、名手となった。演武場を開き弟子を集めて教授した。進物を手に繁のところに入門したものは数百人を数えた。武道に多大な貢献をしている、といった感じでしょうか。
幕末から明治にかけての時期には剣術が非常に盛んに行われました。江戸だけでなく地方においても諸流派が競って町道場を設けました。繁が心を傾けた剣術は、直新影流という流派で、免許皆伝の腕前であったそうです。
直新影流は山田平左衛門を流祖とし、幕末に男谷精一郎や榊原鍵吉などにより広められました。特に明治三年に士分以外の帯刀が禁じられたことによって町道場がたちゆかなくなり、武芸者に職を失う者が多くなったことから、榊原鍵吉らにより「撃剣会」という剣術興行が東京を中心に地方でも催されました。町域でも和戸と百間で二回ほどあったことが知られています。とくに百間で行われた明治十六年十二月二十八日の撃剣会では榊原鍵吉以下直新影流の一門一同が会した盛大なものであったそうです。盛助の生まれる前年に開催されたこの撃剣会には、当然、繁もその一員として加わっていたものと思われます。
島村先生誨誘之碑島村先生誨誘之碑

宮代町字中にある島村家と道路を挟んで向かい側にあたる場所に、大きな石碑が建っています。高さ三五三センチ、幅一五四センチを測る大きなこの石碑の上部には、篆書と呼ばれる書体で「島村先生誨誘之碑」と書かれています。「誨誘」とは、教え導くという意味であり、「教え導いてくれた島村先生」というような意味になります。島村先生とは誰のことでしょうか。
漢文調で書かれた碑の文章の始まりを見ると、「君諱雄隆島村氏通称繁至道軒其号也武蔵国南埼玉郡百間村人考諱貴英(下略)」とあります。書き下すと「君、諱は雄隆、島村氏、通称は繁、至道軒はその号なり。武蔵国南埼玉郡百間村の人。亡き父の諱は貴英(下略)」となります。つまり島村先生とは盛助の父・繁のことです。この一文からは、盛助の父は名が雄隆、通称は繁と呼ばれ、号は至道軒。武蔵国南埼玉郡百間村出身。また、繁の父(盛助の祖父)の名が貴英であったことがわかります。
続く文章には、繁が武士として身を立てるために武芸の修得に励んだこと、明治十六年に直新影流の免許皆伝を受けたこと、明治二十七年に屋敷内に遵養館という剣術道場を設けたこと、明治三十九年に村長となり、学校の改築や橋梁の修繕など教育や土木事業に力をいれたこと、明治四十三年の大水の時には、昼夜を問わず奔走し多くの人命を救ったことなど、繁の経歴や事績などが示されています。
明治四十四年十一月十三日、繁は四十七歳の若さで病にかかりこの世を去ります。葬送に訪れた人は、県知事をはじめ五千余人であったと碑には記されています。
碑文の終わりには、繁の功徳を伝えるために碑を建てたいという弟子たちの希望をうけ、嗣子の盛助が計画し、繁の友人であり本郷村(現杉戸町)の有名な漢学者であった大作暢が文章と文字を書いたという、碑の建設にかかわる経緯が簡単に述べられています。
碑の裏側には三百四十人を超える人名が記され、繁を慕った人の多さを物語っています。