島村盛助(2)

盛助の没後に刊行された遺稿「失楽園」の巻末にある年譜によると、
明治四十四年九月 私立下野中学校教諭となる。
大正元年十一月 私立埼玉中学校教諭となる。
とあります。
私立下野中学校は、現在の作新学院高等学校です。まだ調査を行っていないため、いつまで勤務していたのか、あるいは関連資料があるかどうかも含め、残念ながらほとんどわかっていません。
私立埼玉中学校は、現在の埼玉県立不動岡高等学校です。同校の開校記念誌である「開校五十年史」及び「不動百年」を見ると、盛助に関する記述を数ヶ所見つけることができます。
まず「開校五十年史」の記述によると、盛助の在職期間が大正元年十一月から、同九年六月までであることがわかります。のちに山形高等学校の教授に任じられたのが同年七月のことでしたから、ぎりぎりまで在職していたようです。
さらに「不動百年」では、卒業生の追想のなかに、盛助に関する記述が数ヶ所見られます。
さて、このように教員としての道を歩み始めた盛助でしたが、読売新聞への「貝殻」連載にひきつづき、作家・翻訳家としても多くの作品を発表していきます。
特に、大正元年八月に刊行された「ホトトギス」第十五巻第十一号から七回にわたり連載された「レオナルド・ダ・ヴィンチ」は、メレジュコフスキー原作の翻訳としては三作品目となるものです。
また、読売新聞にも何度か作品が掲載されましたが、小説というよりは随筆のような作品が多いようです。
大正九年七月に山形高等学校教授職を任ぜられると、盛助の生活の拠点は山形に移ります。作品を発表することも少なくなり、山形高等学校関係の雑誌への寄稿のみとなっていくようです。
若かりし頃の盛助若かりし頃の盛助

大正九年七月十五日の読売新聞に、盛助に関する記述が見られます。「文芸」ページの「よみうり抄」というコーナーにあるその記事には、次のように書かれています。
「島村苳三氏 新設山形高等学校教授に任命され此程赴任目下同市七日町山形ホテルに寄寓中である。」
読売新聞は小説「貝殻」をはじめ、数作品を発表した新聞であり、ペンネームで動向が紹介されていることからも、作家として認識されていることがわかります。
同年九月に山形高等学校(以下、「山高」とします。)が開校すると、盛助は英語科の学科主任に、また、理科一年甲一組の担任となりました。このとき担任した学生の中には、美術評論家で京都国立近代美術館の館長を務めた今泉篤男氏がいました。
開校当初は一学年しかなかった山高が、三学年まで揃った大正十一年の十月、盛助は文部省から「英語科及語学教授法研究」のため、一年半のイギリス在留を命じられて留学しました。翌年の十二月には帰国したようなので、ほぼ一年間の留学であったようです。
在英中の盛助の様子については、日記やそのほかの記録類が見つかっていないことからわかりません。どこに住み、どのような勉強をしたのか。何を見、何を思ったのか、とても興味がわきますね。
在英中の盛助の様子を伺えるものを、一つだけ、山高の校友会雑誌に見つけることができました。昭和七年二月発行のこの雑誌には、「みづゑの思い出」と題し、留学時代の思い出話が随筆として載っています。
この作品には次のエピソードが伝わっています。作品のタイトルを見た学生たちが、「厳格な島村先生が、みづゑという女性の話を書いた。」と勘違いをしたが、実は留学時代に楽しんだ「水絵」つまりは水彩画にまつわる話であった、というものです。本文を読んだときの、ちょっとがっかりしたような学生たちの顔が思い浮かぶようですね。
オックスフォードにおいてオックスフォードにおいて

「ある日先生が文部視学委員として視察に来られてたまたま私が五年生の英作文の授業をしているところを見られた。ただその一回の遭遇が縁となって、それから五年の後(昭和五年四月)私が富山高校在任中に思いがけなくお手紙を頂いて山形高校に招へいされ、以来今日に至った。」
これは、盛助が中心となり編さんをした『岩波英和辞典』(以下、『辞典』とします。)の共著者の一人である田中菊雄氏が、盛助と出会ったきっかけを述べているものです。『英語研究者のために』という著書にあるこの部分からは、盛助との出会いが大正十四年から十五年頃であることがわかります。また、大正十二年にイギリスから帰国したのち、山形高等学校の教授を務めながら、文部省の視学委員も務めていたこともわかります。
『辞典』にある田中氏の序文によると、昭和五年に山形高等学校(以下「山高」とします。)に招へいされた田中氏は、盛助の「教壇の延長として英語教授を内面的に革新すべき小辞典」を作りたいという夢を知ります。このことについて盛助と朝夕に語り合い、いつしかその夢を共有するようになりました。その年の秋に、山高開校十周年記念式が行われ、出席のために来訪した、山高出身で当時九州帝国大学の助教授をしていた佐藤通次氏の知るところとなりました。感銘を受けた佐藤氏が、岩波書店社長の岩波茂雄氏とともに出版を勧めたことから、小辞典の出版は夢から具体的なものへとなりました。
編さん作業の過程においては、掲載すべき単語の選出から始まり、発音を表現する記号の表記問題、あるいは、単語の説明方法など、さまざまな苦労があったようです。これは別の機会にご紹介いたします。
昭和五年秋からの作業開始に始まり、足掛け七年の歳月を経た昭和十一年四月、『岩波英和辞典』が出版されました。それまでの英和辞典にはない革新さは、今なお、高い評価を受けています。
『岩波英和辞典(初版)』表紙『岩波英和辞典(初版)』表紙

岩波英和辞典の編さん作業のかたわらで、盛助はある作品の翻訳に着手していました。
その作品は、イギリスの詩人でありジャーナリストとしても知られた、エドウィン・アーノルド(以下、「E・アーノルド」とします。)の抒情詩「亜細亜の光(原題「THE LIGHT OF ASIA」)」です。
E・アーノルドは、一八三二年に生まれ、インドのデカン大校長や、イギリスの新聞である「デイリーテレグラフ」において主筆などを務めた人です。明治二十二年に特派員として来日しました。彼の三人目の奥さんは日本人であったそうです。東洋の文化や思想、生活などに造詣が深く、これらを題材とした作品をいくつか発表しています。そしてこの「亜細亜の光」は仏陀の一生を賛美した抒情詩で、出版されるとヨーロッパの各国で翻訳され、多くの人が読む本となったそうです。
盛助が翻訳した「亜細亜の光」は、全8編からなり、これは原作の構成と同じです。
盛助は、この翻訳を自分の勤める山形高等学校の校友会雑誌に発表しました。
初回は、校友会雑誌第二十四号に「亜細亜の光 1の巻」として第1編が掲載されました。引き続き、第二十六号に「2の巻」、第二十八号に「3の巻」が掲載されました。約一年に一度の発表ペースでした。しかし第三十号の「4の巻」、第三十一号「5の巻」と毎号続けて発表した後は、第三十六号に「6の巻」を発表して終わりとなっています。残りに第7編と第8編があるのですが、これは校友会雑誌に発表されることはありませんでした。
岩波文庫から盛助が翻訳した「亜細亜の光」が刊行されたのは、昭和十五年十一月二十九日のことでした。校友会雑誌に掲載されていた翻訳が、大手出版社の岩波文庫から刊行されたことは、当時の在校生たちにとって、島村教授への畏敬の念を改めて深めさせるものであったようです。
ところで、この「亜細亜の光」の翻訳を思い立ったのはいつごろで、何故だったのでしょうか。また、翻訳の過程はどうだったのでしょうか。そのご紹介は、別の機会のお楽しみとさせていただきます。
岩波文庫「亜細亜の光」表紙岩波文庫
「亜細亜の光」表紙

昭和十九年七月、盛助は旧制山形高等学校(以下、「山高」とします。)を依願退職しました。
当時は太平洋戦争の真っ只中であり、戦局が大変厳しくなっていった時期でした。学校に軍部の人間が配属されるようになり、また、英語は「敵国語」とされたことから、それを教える教授たちは冷遇を受けていました。
退職後、盛助は郷里の百間村(現在の宮代町)に戻り、晩年を過ごしました。
昭和二十年八月に、多くの犠牲を経て太平洋戦争が終結すると、盛助を取り巻く環境も大きく変化しました。
昭和二十二年四月から、盛助は埼玉県立川越中学校(以下、「川越中学」とします。)に週二日出講するようになりました。ちょうどこの頃、山高在任中から手がけていたP・B・シェリー作「プロミシュース解縛」の翻訳を完成しました。そして、ミルトン作「失楽園」の翻訳に着手しました。この翻訳は四年後の昭和二十六年七月に完成しました。「失楽園」翻訳の完成に先立つこと同年三月には、岩波英和辞典の新増訂版が刊行されており、「失楽園」の翻訳と、辞典の増補改訂作業が同時期に進められていたことがわかります。
盛助は川越中学のほかに、埼玉大学や母校の東京大学(旧制第一高等学校)にも出講しましたが、健康がすぐれなくなったことから、昭和二十六年十月にそれぞれを退職しました。
体調不良は、彼の作品にも現れています。昭和二十六年十一月二十三日、盛助の娘の百子さんが勤めていた百間中学校に、念願の校舎が竣工しました。盛助はこれを祝って俳句を詠んでいますが、この俳句が書かれた短冊の裏面には妻の朔さんの字で「絶筆」と書かれています。盛助最後の作品となりました。
昭和二十七年四月二十二日、療養の甲斐なく、盛助は自宅にて病没しました。享年六十七歳。法名は教覚院雄盛苳三居士。西光院にある島村家累代の墓所に埋葬されました。
(次回からは、盛助の作品についてご紹介していきます。)
盛助 墓石 右から三人目盛助 墓石 右から三人目