明治四十二年七月の東京帝国大学(以下「帝大」とします。)卒業後、盛助が初めて発表した作品は、メレシュコフスキーの作品を翻訳したものでした。
メレシュコフスキーは一八六五年に生まれたロシアの作家で、ロシア象徴主義草創期の詩人にして、もっとも著名な思想家として知られています。
メレシュコフスキーは一八九四年から一九〇五年にかけて歴史三部作と呼ばれる小説を書き上げました。この三部作は彼の博学ぶりを物語るもので、世界で広く読まれたそうです。
『ジュリアンの最後』と題されたこの翻訳は、帝大の文科で発行していた雑誌「帝国文学」第十六巻第三号に掲載されました。この翻訳の発表にあたっては、盛助はペンネームを用いず、「文学士 島村盛助」と表記されています。
この『ジュリアンの最後』は、メレシュコフスキーの作品の翻訳であることはわかりましたが、翻訳文が一つの作品の全体訳なのか、部分訳なのか、掲載されている状態からだけではよくわかりませんでした。調べても、同じタイトルではメレシュコフスキーの作品リストにはありませんでした。
そこで手がかりとなったのが、作品名にある「ジュリアン」という言葉でした。「ジュリアン」とは、JulianもしくはJulienなどと表記し、英語やフランス語を使用する国などにおいて、主に男性の名前として使用されます。もともとはラテン語の「ユリアヌス」に由来するそうです。
ここで、メレシュコフスキーの作品を見ると、歴史三部作のうちの第一作目に『神々の死』(別題『背教者ユリアヌス』)という作品を見つけることができました。
後に盛助は、この『神々の死』を『背教者ジウリアノ』というタイトルで翻訳し発表します。「ジウリアノ」とは「ユリアヌス」のことです。その全体訳と比較してみると、『ジュリアンの最後』が、部分訳であることがわかりました。
この作品に出てくる「ジュリアン」とは、ローマ帝国の皇帝ユリアヌス帝のことで、キリスト教を国教と定めた後のローマ帝国において、最後の異教徒皇帝として知られる実在の人物です。
盛助の『ジュリアンの最後』は、『背教者ユリアヌス』から抜粋で翻訳をおこなっていますが、あたかも短編小説として書かれたかのようにうまくまとめあげられています。