平成十五年度におこなった、郷土資料館の特別展「英文学者 島村盛助」でもご紹介しましたが、盛助は明治四十二年に東京帝国大学を卒業するとすぐに、朔(さく)夫人と結婚しました。盛助は二十五歳、夫人は十七歳での結婚です。夫婦仲は大変良かったそうで、六男三女に恵まれました。
子どもが多かったこともありにぎやかな家庭でしたが、お客さんなどが訪ねた際には、子どもがいる家庭とは思えないくらい静かで、大変行儀の良い子どもたちだったと、教え子の方を訪ねた際にお聞きしました。
盛助夫妻の間に第一子が誕生したのは翌四十三年のことでした。この第一子の誕生は、盛助の心に大きな変化をもたらしたようです。
明治四十三年九月一日発行の文芸雑誌「昴(スバル)」九月号(第二年第九号)に、盛助の小作品が掲載されています。作品名は『半夏』です。
主人公の名は省吾。猫は嫌いと思っていた省吾ですが、身重の妻の希望で友人宅で生まれたばかりの子猫を貰い受けます。猫好きの妻や他の誰よりも省吾になついた子猫に、自分でも予想しなかった愛情を感じ始めます。
月が替わり、妻は臨月となります。毎月診察に来る産婆の話では月末の出産であろうといわれていましたが、ある夜の晩に陣痛が始まってしまいました。それまでも空想をめぐらすばかりで現実のことと理解できないでいた省吾は、いよいよ現実味を帯びてきた「人の親になる瞬間」を想像し、妻が陣痛に苦しむ姿を見ながら、自分のことを「父」と呼ぶ子と自分のことを考え続けました。
産婆とその助手が来たものの難産となり、省吾の頭の中は最悪の状況しか考えられなくなります。男ならいい、いや健康に生まれてくれればと思い、さらには無事に生まれてくれればと願い、最後には妻さえ無事ならとさえ思った省吾。呼ばれた産科医の処置により子が産まれ、耳を突くような産声に、省吾は失心したようになってしまいました。生まれた子どもは女の子で、桃子と名づけられました。
桃子が生まれてからの十数日間、友人と祝いの酒盛りをしたり、産婆の助手の母親が亡くなったり、桃子が目を病んでしまったりなど、諸事に忙殺される中で、貰ってきた子猫の存在が忘れ去られました。あることをきっかけに、省吾が子猫を思いだし様子を見ると、子猫はやせ衰えてしまっていました。桃子が生まれた日、異常な騒ぎ方をしていた子猫は、省吾の知らぬ間に桃子と仲が良くなっていました。しかし、もう省吾が子猫に愛情を感じることはなかったのです。
このお話では、空想はしてみるものの父親としての自覚や覚悟を持ちきれないでいた省吾が、子猫という小さな存在を通して、幼い者に対する愛情を認識し、それが我子の誕生という現実を目の当たりにすることで、ようやく現実のものとして理解していく過程が表現されています。
この「昴」九月号(第二年第九号)が刊行されたのは、盛助に第一子が生まれた後のことです。盛助の第一子も女の子でした。とすると、この『半夏』は、盛助自身が初めて体験した第一子誕生という出来事に、大きく影響されて生み出された作品ではないかと思われます。