前々回、前回と続けてご紹介した『半夏』と『子』は、こどもの誕生という新しい命が主題となったお話でした。ところが、これらとほぼ同時期に発表された別の作品では、「人の死」が話のきっかけとなっている作品を発表しています。
まず、『子』と同じ明治四十三年十月に発表された作品として、「帝国文学」第十六巻第十号に『病院雑記』があります。帝国文学の目次には、その作品のジャンルが示される場合があり、対話・小説・戯曲などのように表記されています。この『病院雑記』は「小品」となっていますので、簡潔にまとまった小さな作品、あるいはスケッチ体の短い文章の作品ということになります。実際、五ページほどの短い作品で、さらに「寝台」と「中央郵便局」という二つの作品の集合体となっています。
内容は、伯母の看病のために病院に泊まりこんでいる主人公が、初恋と思われる年上の女性の思い出を回想するお話です。相手の女性は亡くなってしまったようで、彼女の好きだった白桃の花を手にお墓の前にたたずみながら、病人であったはずの彼女の髪がなぜ美しかったのかと思いを巡らしたことを、闘病により黒ずみ、やせ細った伯母の寝顔を見ながら思い出します(「寝台」)。そして、伯母がいよいよ危篤になり、関係者に電報を打つために立ち寄った郵便局で目にした景色を、「何故か余は、中央郵便局の其の朝の景色を忘れ難い様に思ふのである。」と表現して終わりとなっています(「中央郵便局」)。
主人公は自分のことを「余」と表現していて、名前が出てきません。単純に小さな作品であるためだけなのか、あるいは、盛助自身の体験から生み出された作品なのか、疑問が残る作品です。
『病院雑記』の発表の翌々月、明治四十三年十二月一日発行「スバル」第二年第十二号には、『落合』という小説を発表しています。
物語の主人公は荒井といい、亡くなった友人・中瀬への弔慰金を集めるシーンから始まります。弔慰金を集めるために高等学校時代の友人を訪ねながら、「此の當時ほど懐しく思ふものはない」という思い出の数々とそれを共有した寄宿舎で同室だった友人たちとのエピソードが語られていきます。
作品の最初から最後まで通して読んだときに、なぜ『落合』というタイトルがつけられたのか、それを明確に示す表現はありません。人名でも地名でもなさそうです。どんな意味があるのでしょうか。
『落合』の文章中には、日本語を使わず英語やドイツ語をカタカナで表現している部分があります。インフルエンザがインフリュエンザになっていたりしているので、元の単語が何かがわからないと理解できません。そのなかで、小説の最後に「フォールシュマックをしていた」という表現があります。英語であればfall schmuck「間抜けになる」とか「落ちぶれる」のような意味になるのでしょうか。最後にある言葉だけに、重要な意味を持つ言葉のようです。こう考えると、『落合』というタイトルは、「こんな子供らしい事を心からの真面目でしたのか、或るひは真面目を粧つてしたのか、其れは何れにしても七人は無邪気であつた」主人公たちが、高等学校卒業から五年後という短い期間でありながら、当時に持っていた理想が、大人としての現実に代えられてしまったということに対する、自嘲めいた感覚を示しているのではないかと思われるのです。