明治四十三年六月に「ホトトギス」に発表した『残菊』からほぼ一年後、明治四十四年五月、「ホトトギス」第十四巻第十号に発表された『渚』は、『残菊』の続編のような内容となっています。
主人公は永田昌吉。『残菊』では、大学卒業後に田舎にある実家に戻り、妻の清子と生活をしていました。漠然(ばくぜん)と東京に出ることを考えながら、鬱々(うつうつ)と日々を過ごしている様子が描かれている作品でしたが、この『渚』では、昌吉は東京の森川町(現在の文京区本郷六丁目付近)に家を借り、清子と手伝いの若い女の三人で暮らしています。就職の口を探すわけでもなく、学生時代に始めた長編作品の翻訳を渋々している日々を過ごしています。
友人と会うため、大学の庭に卒業以来初めて足を踏み入れた昌吉は、まだ大学に残る他の友人とも会い、かわらぬ会話にほっとしながらも、互いの置かれた立場の変化を感じ取ります。
昌吉は東京に出てきたものの、「どうにかして自活の道を講じなければならぬとは考へてゐる。然し其れが今日明日に切羽詰つた問題の様にはどうしても考へられないのだ。東京に出てくる前に散々思ひなやんだ仕事の問題は絶えず心にかゝつて居(い)乍(なが)ら何時(いつ)ともなく切迫の度をゆるめて了(しま)つた。昌吉自身にも何故さうなつたのか解らなかつた。」のでした。
物語を通して、昌吉が翻訳した作品を出版する本屋を探すくだりが何度かありますが、昌吉は勝手な期待を何度も打ち砕かれ、しまいには憤怒すら覚えます。この「世の中を知らぬ初心な所」からくる昌吉の感情の起伏が、タイトルの『渚』のとおり、打ち寄せる波に例えられているのではないかと思われるのです。