前回ご紹介した「楊(やなぎ)の花」とほぼ時を同じくした明治四十五年七月六日、読売新聞朝刊の第八面に島村苳三の作品が掲載されています。
タイトルは「白山東平(はくさんひがしだいら)」。石川県と岐阜県の県境にある白山に登山したときのことを回想する随筆となっています。
この登山に対して冒頭に、苳三は「私は只(ただ)夢のやうに覚えてゐたい。あの白山東平で過ごした数日を、ひよつとすると事實(じじつ)ではなかつたのかも知れないと自分ですら疑(うたが)ふほど・・・。」と、述べています。
「木曽から飛騨を横切って、山から山を此所までくる間にはもう覺束(おぼつか)ない山道にはかなりに馴れてゐたのだつたがその道は特に心細かつた。」あるいは、「幾度となく道を失つては澤(さわ)の音も聞こえぬ、寂寞(せきばく)とした雨に濡れた青葉の中に泣きたいやうになつて佇(たたず)んでゐた」といった思いをしながら、ようやく銀鉱の試掘を行う山小屋に到着し、そこで雨が止むまで数日を過ごすこととなりました。
山小屋で一緒に過ごすことになった者たちの中に一人の少女がいました。山小屋の所有者の子どもで、兄とともに来ていたのでした。寂しい山の中に少女が一人混じっていることに驚いた苳三が少女に理由を尋ねると、「私だつて来て見たいんですもの。」と答えたのでした。
雨が止むまでの数日間、苳三の親しい友達はこの二人のこどもたちでした。掘りかけの廃坑を探検したり、少女が歌う唱歌を聴いて過ごしました。
六日目か七日目に漸(ようや)く空が晴れ、苳三は他の一行と共に、もはや住み慣れた山小屋をあとにしました。
「それは愉快な登山だった。それ丈け、白山の頂上で山の人達に別れて、傾きかけた日の光をまともに険しい白山を加賀へ下りて行く時私は淋しかつた。」
登山中に通過してきた集落や、山小屋の具体的な位置、あるいは同宿することになった人々のその後の消息など、思い出を裏付ける作業をするのではなく、ただ愉快であったという感情のみを大切な思い出として回想する・・・そんな穏やかな気持ちを表現した作品となっています。