第38回 作品紹介(22)『蓬莱座 ~平野小品の三』

前回紹介した『往来』の掲載から約一週間後の大正二年三月二日、読売新聞の日曜付録のコーナーに、平野小品の続きとして『蓬莱座(ほうらいざ)』が掲載されました。
今回の作品は、主人公の「私」が廃屋だとばかり思っていたやや大きな建物が、実は芝居小屋であったことを発見するシーンから始まります。
この建物が実は芝居小屋であったことがわかったのは、「市川猿寿丈江(いちかわえんじゅじょうへ)」と太く染め抜かれた柿色の幟(のぼり)が風に鳴っていたのを見たからでした。桑畑に囲まれた中に建っていたそれは、正面に三角の白い破風(はふ)があり、そこに座の徽章(きしょう)に「蓬」の字が圝(まる)く書いてある建物でした。普段は固く閉じられた扉が半分ほど開いていたところを通り過ぎながら覗(のぞ)いてみると、舞台まで四間ほどの奥行きに、古い畳を敷き詰めた坪の区切りが見えました。しかしながら、一番目をひいたのは、筒袖の着物に黒い三尺帯を巻きつけて、舞台の上で立廻りの稽古をしているらしい一人の若い男の姿だったのでした。
ある夜、小料理屋でたった一人盃を手にしていたとき、ふとクラリネットの音がそそり立てるように鳴り始めたのに気づきました。冷たくなった盃を見つめながら、引きいれられるようにじっとその音を聞いた私は、小料理屋から停車場へ向かう途中に蓬莱座の前を通り、それが活動写真の興行であったことを知りました。
それから幾度新しい興行が行われたかは知らないが、ある日の午後、蓬莱座の前にきれいなゴム輪の車が七台ばかり並んでいて、「豊田一行」と書かれた額を真ん中に、悲壮な軍人の武勲を想像させるような看板が掲げ連ねてあるのを見かけました。「役者の乗込み」であると、私はすぐにそう思ったのでした。車夫たちは、寒そうにひざ掛けにくるまり、焚き火にあたたまっているのでした。
平野小品の特徴とも言える「目にみえた風景の描写」であることが明確な作品ともいえますが、前作は「私」の視点の移動とともに、見えているものも変化しましたが、今回の作品は視点が「蓬莱座」だけに向けられ、時間の流れによって見えているものが変化してくとともに、ある瞬間の「私」の感情もあわせて描写されている、そんな作品となっています。