大正九年七月、新設された旧制山形高等学校(以下「山高」とします。)の英語科教授として、盛助は山形に赴任しました。約二年後の大正十一年十月には、文部省より英語科および英語教授法研究のためとして在外研究員を拝命、イギリスのオックスフォードに留学し、翌十二年十二月に帰国するなど、このころの盛助は、英語学者としての経験を深めていた時期にあたります。
盛助がイギリスに向かった前年の大正十年(一九二一)には、山高の文芸雑誌として「山形高等学校校友会雑誌」(以下「雑誌」とします。)が創刊されました。この雑誌には、主に生徒たちの作品が掲載されましたが、教授たちからの寄稿もあり、盛助の作品も多く掲載されました。初めて作品が掲載されたのは、大正十三年十二月二十三日発行の第九号でした。盛助に敬意を表してでしょう、巻頭の一作品目に掲載されています。
作品のタイトルは「一弦の胡弓」です。これは、これまでの作品とは異なった意味合いを持つ作品でした。というのも、現在確認できているなかで唯一とも言える英語文学の評論文であるからです。
「誰にしても自分の景慕する詩人が人間としても亦欽仰に愛するものであれかしと思ふのは人情であるしかしポウは人としても亦詩人としての缼點と同じ缼點をもつてゐた。彼は『人情』を持たなかったのである。『人情』を持たなかったといふよりは寧『非人情』であつたといふ方が適當であるかも知れぬ。」との書き出しで始まるこの作品は、有名なアメリカの小説家・詩人であるエドガー・アラン・ポー(以下「ポー」とします。)について、主に彼とその詩作について述べたものです。
明治から大正期にかけての多くの日本の作家がポーから影響を受けました。なかでも彼の名をもじってペンネームとした江戸川乱歩は、ポーの作品から着想を得た作品を多く発表したことで知られています。
ポーについては、彼の死後間もなく発表された彼を誹謗する内容の『回想録』により、事実と違う偽造された人物像が流布していました。自国のアメリカでポーの再評価がおこなわれるのは死後約一世紀を経てからで、主にヨーロッパ諸国における高い評価が伝わってからのことでした。盛助がイギリスに留学した時期は、まさにその再評価がなされだした時期にあたります。
「一弦の胡弓」は、スコットランドの民俗学者・編集者であるアンドルー・ラングの評論に従い、イングラムやセインツベリといった当時の評論家たちの言葉を引用して書かれています。その中ではポーが「詩の原理」という講演の中で、「詩が美を知覚する官能の所産であるべき」と述べていることをとりあげ、ついては「ポウの詩は畢竟音楽に外ならない。(中略)彼の詩は何ものをも教へない。彼の詩は無意味に近い。彼の詩の旋律は音韻の詭計に過ぎないと立派に證明し得るかも知れぬ。(中略)・・・ある胡弓弾があつて誰と競つても必らず勝つた。その調子は此の世のものとも思はれぬ陰惨なものであつて、人の耳を怪しい憂鬱なひゞきで恍惚とさせたその胡弓には、しかし、たゞ一筋の糸しかなく、その胴は死んだ女の胸の骨で造られてゐた・・・。ポウの詩は此の胡弓弾の唄に似てゐる、といつたら恐らく彼はこの比喩にほゝゑむだらう。彼の詩はこの一筋の絃にふれて、死して朽ちざる切なる情ひにふるひをのゝく唄なのだーー。」としています。
この作品の掲載にあたって、盛助は違うペンネームで執筆しています。その理由は、次回の作品紹介の際にご紹介いたします。