これまでの作品紹介では、作家として、あるいは英文学者としての盛助の作品の数々を紹介してきました。作品の多くは平成十五年度の特別展「英文学者 島村盛助」実施時に把握されていたものです。しかし、盛助が執筆した当時の新聞や文芸雑誌にある批評欄、あるいは作家の動向を知らせる記事などのなかにさりげなく書かれていて、掲載された誌面の情報が載っているものもあれば、「○○を執筆中」と表題のみが示されたものもありました。これらの表記をきっかけに調査を進め、特別展以降にも盛助の新たな作品を多く発見することができましたが、まだまだ未調査の情報が数点あり、引き続き確認作業を進めていきたいと考えています。
今回ご紹介する作品も、調査を進めていく中で見つかり、確認がとれた作品です。しかし、この作品は文芸的な作品ではありません。作品と呼ぶのもふさわしくないものかもしれません。なぜなら、雑誌の追悼号に寄せた文であるからです。
盛助の書いた追悼文が掲載されているのは、昭和十七年十二月十五日発行の「蜂鳥」第五輯です。この本は「岡本信二郎追悼号」とあることから、岡本信二郎氏を追悼する特集号であることがわかります。
岡本信二郎氏は明治十八年(一八八五)、千葉県の銚子に生まれ、同四十四年(一九一一)に東京帝国大学法科を卒業、大正十一年(一九二二)に盛助が勤めていた旧制山形高等学校(以下「山高」とします。)の教授となりました。
岩波英和辞典編さん時のスタッフで、山高の第三回卒業生でもある藤島昌平氏のお話では、岡本信二郎氏とは親友といってもいいほど親しくしていたそうです。
同僚でもあり、親しい友人でもあった岡本氏は、病により昭和十七年に亡くなりました。盛助が山高の教授の職を辞したのはそれから一年余りが過ぎた昭和十九年のことです。辞職の理由はいくつか考えられるのですが、前述の藤島氏は、「島村先生は、寂しかったのではないかと思います。親しくされていた岡本先生が亡くなり、当時の状況も英語科の教授にとっては決してよい状況ではなかった。そんなことも、定年を迎えられる前に辞された理由の一つであったと思うのです。」と、お話ししてくださいました。
その親しかった友人の追悼文を書くにあたり、盛助が選んだ話題は、「俳諧のこと」でした。
山高の校友会雑誌には、数度にわたり盛助と岡本氏とが編んだ連歌が掲載されています。追悼文では、連歌を編むことになったきっかけや、その後の様子などについて述べています。
文の冒頭は、岡本氏を彼の俳号で呼びながら、「迦生君の思ひ出を書き集めるとすれば、俳諧のことも誰かが書かなければならないだらう。とすれば、その總てを一緒にやつた私もそれを書くべきものかと思ふ。」と書き始めています。そして末文は、「ゆきあひし人かくれゆく夏野かな ふとこんな句が浮かんだが、この句に附けてくれたかも知れぬ迦生君はもう居ないのだ。」としています。
これまで紹介してきた盛助の作品において、盛助自身の思い出や素直な感情が表れている作品は、イギリスでの思い出を綴った「みずゑの思い出」の他、いくつもありません。この「俳諧について」という追悼文は、決して長い文章ではないのですが、岡本氏への思いが一言一句に込められた、胸を打つようなものとなっています。