昭和二十七年四月二十二日に盛助氏が亡くなってから、六十年以上がたちました。教えを受けたことのある方々も、お若い方でも八十歳を越える年齢となられています。そのため、盛助氏について聞き取り調査などをするにも、お話をうかがえる相手を探すのが難しくなってきました。
このような状況ではありますが、これまでの調査において、多くの方々にお会いすることができ、貴重な思い出話をお聞きすることができました。また、勤務先となった学校の記念誌などに掲載された思い出話の中に、盛助氏に関する記述を見つけることもできました。
今号からは、調査を通じて知ることのできた、関係の方々が語る「盛助」像について紹介していきます。
さて、「盛助」を語る初回に登場するのは、前号でも少しお話を紹介した藤島昌平氏です。藤島氏は旧制山形高等学校(以下、「山高」とします。)での教え子の一人で、盛助氏と同じく英文学者となられ、長く教壇に立たれた方です。平成十九年十月に百三歳でお亡くなりになりました。お会いできたのは平成十五年から十八年にかけてで、貴重なお話をいろいろとお聞きすることができました。
藤島氏は、山高の第三回生ですので、大正十一年の入学です。その年の十月に盛助はイギリス留学に旅立ち、翌年の十二月末に帰国しましたので、藤島氏が在学中に盛助氏の授業を受けることのできた時間はあまり長くはありません。しかしながら、短い期間とはいえ受けた授業の印象はとても深いものであったようです。
「先生の授業は予習をしっかりしていかないと、テキストのどの部分を教えてくれているのかすぐに分からなくなってしまう状態だった。昔は、ヨーロッパで作られた本を取り寄せてテキストとして使用していたが、先生はもう完全にテキストを身体に乗り移らせてしまっているんだね。そういうようなinterpretation(解釈)ね、そういうやり方をしてくださっていたんだよ。・・」
「先生が(イギリスから)戻ってこられたときには、少し半端な時期に戻ってこられた。学期のね。しかし当時の校長先生が、島村先生はせっかくいいものを身につけてお帰りになったのだから遊ばせておく手は無いといって、三学期の頃だったと思うが、英語を主としていたクラスにということで、僕らのクラスも含めた3クラスくらいに授業をしてもらうこととなった。期間的に短かったこともあり、新しいテキストを用意するのではなく、これまでの先生が使用したテキストの中で、中途半端に使わなくなったものをテキストにしようと言い出された。チャールズ・ラムという人が書いた〝エリア随筆〟という本がある、と答えたところ、『そんないい本があるのか、ちょうどいい、それを使おう。』ということになった。次いで、以前の先生の教え方を聞かれ、『その先生が気に入った所を選んで教えてくれていた。』と伝えたところ、その部分以外で島村先生がお好きな部分を指導してくださることになった。テキストが決まって初めての授業のときに、先生の第一声を聞いた途端に感じたのが『これは同じ本なのか。別の作品のようだぞ。』ということであった。それほど先生の翻訳というか、内容の乗り移り方が違っていたんだね。この本は今でも気に入っていて、一度は戦火で焼いてしまったが、その後、神田の古本屋で見つけて買い求めた。この本を開き、随筆の一編でも読めば、いろいろと思い出されるんだよ。・・・」
藤島氏からお伺いできたお話は、来月号以降も引き続きご紹介させていただきます。
盛助の授業は「他の先生方とは全く違っていた」と答える教え子の方々が、実に多くいました。。何が違ったのでしょうか。前回に引き続き、藤島氏のお話の中から、授業風景について紹介します。
『先生の授業は、生半可な予習ではまったくついていけなかった。先生が英文を翻訳していくと、あたかも初めから日本語で書かれていたかのように、滑らかな美しい文章になっていた。教科書を翻訳するのに、辞書にある言葉をつないだだけでは、先生の翻訳と同じになることはなかった。だから予習の手を抜くと、先生が訳している部分がどこなのか、まったく分からなくなってしまうことも多かった。そうなるともう同級生達は大騒ぎになってしまい、成績の良い友人のところに行って教わり、試験勉強用にノートをまとめたりしたものだった。』『あるとき先生がTrickという言葉を「ケレン」と訳したことがあった。学生達にはこの言葉が分からず、ドイツ語の「ケルン」に響きが似ていることからドイツ語まで使い出したかとあわてて、当時ドイツ語の先生をしていた岡本先生のところに意味を聞きに行った。岡本先生は「ケレン」の言葉が出てきた経緯を学生達から聞き、それが日本で昔から使われている言葉の「けれん(外連)」であることを教えてくれた。調べたら、「ごまかし、はったり、うそ」といった意味を示す言葉であり、当然、当時使用していた英和辞典に「けれん」とは掲載されていなかった。先生の授業は総てがこんな感じだったので、予習には英語の辞書だけでなく、国語辞典なども使用しなければならなかった。』
単語一つを訳すにあたっても、それを意味するたくさんの日本語の中からよりふさわしい言葉を選び出していく、授業の風景からも盛助の言葉に対する姿勢や考え方がうかがえるようですね。
これまでお話を紹介してきた藤島昌平氏は、盛助が中心となって編さんした「岩波英和辞典」(以下、「辞典」とします。)の編さん時のスタッフの一人でもあります。調査時点において、辞典の編さんについてお聞きできる方は藤島氏だけでした。
藤島氏は京都大学を卒業後、三年ほど広島市内で教員をされていましたが、勤務していた学校が統廃合の結果廃校となりました。広島県内で新しい勤め先の斡旋はあったそうですが、かねてより知り合いのいない環境に寂しさを覚えていた藤島氏は、同じく新しい学校に勤めるのであれば、卒業した山形高等学校(以下、「山高」とします。)でお世話になった先生や先輩、後輩などがいる山形で勤めたいと考え、山高の先生方の協力を仰ぎ、山形市内の学校に勤務先を見つけました。
辞典の編さん作業は、藤島氏が山形に来る二年ほど前から始まっていました。当時、盛助を中心に山高の英語科の教授たち何人かで作ろうとしていた辞典ではありましたが、なかなか思うように進んでいない状況でした。そんなところに教え子で英語の教諭でもあった藤島氏が山形に戻ってきたので、盛助や田中菊雄氏が「いい人材が戻って来た。」と喜んだそうです。
「英語科には田中先生のほかにK先生やF先生といった二人の先生がおられた。この三人に手伝ってもらっていた。アルファベット順にAは誰が、Bは誰がのように役割を決めていって手分けしてやり始めたが、K先生やF先生があまり熱心にしてくれず、島村さんと田中さんが二人でやっていた。少々手一杯になりつつあったところに私が来たので、お二人にとっては大変助かった、という状況であったらしい。そんなわけで、私が最初に担当したのはPの項目で、それは辞典に載せるべき言葉の数が少なかったから。次にTを担当した。そしてもう一つ、確かHだったと思うが、全部で3つを担当させてもらったよ。そのあとは、特にどの項目ということではなく、校正を担当していったね。」
「校正係は勉強になった。知らないことがいっぱいあり、それについて書かれた説明を読めるわけだからね。初めの内はいろいろなことが分からず苦労したが、慣れてきてからは効率があがった。原稿は島村さんが目を通した。そうすると、赤字がいっぱい書き込まれる。そうして原稿ができると、岩波書店に送った。ある程度たまったら、なんて言っていられない。岩波書店からは、少しずつでもいいから送ってくれといわれていた。送った原稿を元に、岩波書店では版をおこし、それを刷った校正ゲラがこちらに送られてきて、校正作業を始める、といった手順だった。校正ゲラはまず私のところに来る。それに赤をいれたものを田中さんのところに持っていく。田中さんが見る。このとき、付け加える必要があると小さな紙に書いて、印刷された見出しから矢印で指示をだして、校正原稿の上下左右の余白に貼り付けていく。岩波書店の方でも専門に校正を行う担当がいて、そこからの質問事項も書き込まれていたりするから、その内容を確認し、貼り付けた紙に回答を書き加えていく。校正原稿の紙面は、訂正や追記などで真っ赤になっていたから、紙を貼り付けて書かないと書きこみようがなかった。貼り付ける紙が左右の両側につくこともよくあった。それを岩波書店に送り返し、訂正されたゲラが来てというのを繰り返し、最後にかなりきれいになった段階で土井光知先生の元に送った。一方では新しい原稿を作りながら、もう一方では校正を行っていくという大変な作業だったが、今考えてみると、若かったからできたのだね。」
辞典の編さん作業については、田中菊雄氏もその著書において述べています。(後日紹介します。)
「岩波英和辞典」の編さん作業にかかわった藤島昌平氏は、同級生や同窓生たちに比べて、「島村盛助」という人物のいろいろな側面を見ることのできた人でした。学校における「教師」としての盛助の姿だけでなく、翻訳や辞書編さん作業を通じて「英文学者」としての姿、あるいは俳句を読む「文人」としての姿など、実にさまざまです。
「山形高等学校(以下、「山高」とします。)の開校から閉校までの間には、島村先生の右に出るような、そんな先生はいなかったねぇ。格が大きいというか・・・なんとなく押さえになるような、そんな方だったね。歴代の校長先生方も、頭が上らなかったというか、一目置いているという感じであった。学生のほうも、なんとなく怖いと感じていたね。別に叱られたりするわけでもないのだがね。授業が始まるということで先生が教室に入って来られると、教室全体がなんとなくピッと(緊張)していた。そういう先生は、ほかにはおられなかったね。」
「教室では授業内容以外のおしゃべりはほとんどなかったね。授業中、イギリスでのお話を聞かせてもらおうと学生が話を振っても、それで授業時間が無くなってしまうほど饒舌にお話をされるということはなかった。ただ時々、先生のおじいさんにあたられる方やお父上に関することを話されることはあった。決して自慢話のような内容ではなかったがね。お父上は体格がよいかたであったという話が印象に残っているよ。」
「ドイツ語の岡本先生とともに盛助先生のご自宅をお訪ねしたときのことだったと思うが、俳諧に関する話をしたことがあった。島村家にとっては、俳諧というのはお家芸のようなものであったと聞きました。句会のようなものが開かれるときは、皆、襟を正して島村家に来て、座敷に皆が通されると句会が始まる、と。幼い頃、盛助先生は句会に来たお客さんの膝に乗せてもらって、その句会の様子をずっと見ていたというようなお話であった。岡本先生は島村家からの帰り道に「島村君というのは、ああいう環境に育ったのであれば、俳諧というものが身に染みているんだねぇ。どうもおかしいと思っていたが、まさにそうなんだねぇ。」としきりに感服されていたことを覚えている。」
「盛助先生は剣道もなさるが、碁をなさる、将棋もご存知だし、それから謡を一節謡われるのも聞いたことがある。それに、先生の端唄・小唄というのもねぇ実に巧妙なものでしたよ。まぁ、滅多に聞けなかったけれどもね。酒を飲んで適当に酔って、そういうときでないと聞かせていただけなかった。僕らはそういうものに縁がなかったから、唄えなかったけれどもね。学生の中には、遠慮会釈のない輩もいましたから、酒の席で先生にお願いをする者もいた。あるとき山高の同窓会の帰りの二次会で、卒業生たちから所望された先生の唄は実に巧みなものでしたが、先生は「真似事くらいはできるのだが」と謙遜されていましたよ。」
「山高を依願退職されて百間に戻ったあとも、時々ご自宅をお訪ねしていた。失楽園の翻訳に取り掛かられた頃にも、偶然にお訪ねしたことがあった。その時に「藤島君、こういうえらい(大変な)ことを始めてしまったよ。」と手にされた原稿を見せていただいたことがあった。その後何度かお訪ねする際にはいつも、出来具合やここまで進んだみたいな話を聞かせていただいたよ。」
藤島氏は、平成十九年に百三歳で亡くなられました。そのご年齢を考えると、お会いする事ができ、いろいろと貴重なお話をおうかがいできたことは、奇跡に近いものであったと思えます。心よりの感謝とご冥福をお祈りいたします。