第51~52回 「盛助」を語る(5)~(6)

旧制山形高等学校(以下、「山高」とします。)卒業生のお一人で、某有名家電メーカー社長に就任、現在は特別顧問をされている方がいます。山高は大正九年に新設され、盛助氏は昭和十九年まで英語科の教授を勤めましたが、この方は晩年の教え子となります。
「島村先生というと、教授の制服であった黒いガウンをまとって教室に入ってこられる姿が思い浮かぶ。(特別展の)図録の表紙の写真は、普段見慣れた先生の様子ととても近いね。」
「島村先生については、『岩波書店の辞書を作った先生だ。』という風に教えられていた。また、先生の風貌などからも、他の先生とは違う風に感じていた。」
「山高で使用する英語の辞書は岩波英和辞典のみとされていたので、授業の予習や復習には必ずこの辞書を使用していた。授業中は、先生の雑談やおしゃべりはいっさい無く、教室に先生が入って来られるとすぐに授業内容に入っていく。先生が教科書の文を訳されていく言葉などを、一言一句聞き漏らさないように注意深く聞きながらノートをとっていった。とても楽しみな授業だった。授業でとったノートを大切にしていたのだが、戦火で焼いてしまったことが残念でならない。」
「先生は、一番最初の授業のときから『日本語を大事にするように。』『正しい日本語で答えなさい。』と言われた。自分は山形出身ということもあり、正しい日本語がどういうものか知りようもなかったが、先生の訳された言葉が正しい日本語なのだなと感じていた。先生ご自身が翻訳されるにあたっても、相当に言葉を選んで使われている様子が伺えた。どうしても方言が出てしまうからか、よく注意していただいた。」

盛助氏の「言葉に対する姿勢」のようなものがうかがえるエピソードです。
 
前回に続いて、某有名家電メーカー特別顧問をされている方のお話をご紹介します。この方が旧制山形高等学校(以下、「山高」とします。)に入学したのは、昭和十六年のことでした。当時は、昭和十二年七月の盧溝橋事件を発端とした支那事変が起きており、日本国内は太平洋戦争へと向かっている、そんな状態でした。
「山高に入学したのは昭和十六年のことだった。もうすでに戦争が始まってしまっていたので、十分な学生生活を送ることができなかったことが残念である。また、当時は戦争に向かっていることもあって、技術を持った人材の育成を図る必要があったことから、理科(理系)の生徒の定員を増やした。そのため、旧制高等学校は寮に入っての生活が基本であったのだが、地元から通う学生については入寮が認められなかった。高校において寮生活というものは重要な要素の一つであったと思うので、これを体験できなかったことも残念である。」
日本全体が戦争へと向かう雰囲気の中、山高の学生たちにも大きな影響を与えていたようです。そしてそれは学生のみならず、山高の教授であった盛助氏にも大きな影響を与えていました。
「昭和十八年の学徒出陣では、山高からも数人の学生が出征していった。出征に際しての出陣式にあたっては、島村先生自らの筆による送辞を読んでくださった。普段からも、何かの際に激励などを行うとき、先生は必ずといっていいほどご自身で激励の言葉をまとめてくださった。この学徒出陣式での先生の送辞は大変格調高いものであった。是非もう一度拝読したいと思っている。」
最近になって、この送辞が盛助氏の遺品の中から発見されました。「壮行賦」と題されたそれには、戦場へと向かう学生達の心を奮い立たせるような言葉が綴られていました。
「壮行賦
山高くして水長き我が學舎にうち聚ひ
朝な夕なに鍛へてし身を獻げつつ
大君の之許の御楯とかへりみず、
海ゆかば水づく屍、山ゆかば草むす屍、
大空に若き櫻の花と散り、寄せ來る四方の
仇敵撃たで已まじと久米の子ら
出で立つ今日ぞ、みましらが輝く眼
昻る眉、熱き血潮の湧き滾つ赤き心に
吾も亦身は老いぬれど諸共に
若き命は火と燃ゆる。
 
おんみら今し筆を捨て劍を執ると人はいふ。
されども思へ、民草の道を忘れて己が身の
事(わざ)に拘はる筆ならば捨てもしつべし、八十國の
本つ國とて末の世の末の末までたぐひなき
國を護りて大君につかへまつらむ益荒夫は
學の窓に書(ふみ)を讀み筆を執るとも其の心
常に戦の場(には)に在り。文武の道は一にして
筆と劍のわかちなし。
(中略)
極光冱ゆる地の果に北斗を仰ぐ雪の原、
椰子の葉蔭に南(みんなみ)の十字かがやく夏の海、
總帥衆に先んじつ、將卒擧げて悉く
玉と碎けし武夫(もののふ)の勲を續ぎて萬代に
名をし樹つべし。いざや、征け。
昭和十八年十一月二十日」
戦局が厳しさを増す戦場へと、若い教え子達を送り出さなければならなかった盛助氏の胸中はいかがなものであったのでしょう。当時の状況や学生達への思いなどを含め、盛助氏の気持ちが行間からひしひしと伝わってくる気がします。その思いが通じたからこそ、「もう一度拝読したい」と思われるような、今なお心に残る「送辞」なのでしょう。