第54回 「盛助」を語る(8)

盛助氏が勤めていた旧制山形高等学校(以下、「山高」とします。)の卒業生たちは、さまざまな分野において活躍をしました。
卒業生の一人である駒田信二氏は、東京帝国大学支那文学科を卒業したのち、文芸評論や作家として活躍しました。作品の中に「私の小説教室」というものがあり、第4章「私の歩んできた道」の中に、「菊さんの英和辞典」というタイトルの一節があります。山高での思い出を綴ったものです。
「私が山形高校に入学したのは昭和九年で、島村盛助先生と田中菊雄先生との『岩波英和辞典』が完成に近づいたときであった。生徒たちは島村先生を「島村さん」、田中先生を「菊さん」と呼んでいた。島村さんはこわい先生、菊さんはやさしい先生だった。(中略)島村さんには、私たちのクラスは三年間ずっと授業を受けたが、菊さんの授業は二年生のときだけだった。(中略)島村さんの授業はまことにきびしかった。生徒は一時間中ぎゅうぎゅうといためつけられどおしであった。だが、それは納得のいくいためつけかただったので、おそれながらも島村さんをきらう生徒はいなかった。
その、こわい島村さんの授業のとき、私は居眠りをした。入学してまだ間もない、ぽかぽかと暖かい日だった。」

この居眠りによって教室からの退場を命じられた駒田氏は、その後の授業にでることも禁止されてしまいました。上級生からとにかくあやまるようにいわれ、先生の自宅まで四十分ほどかけて訪ねましたが、服装を咎められ、着替えに同じ道のりを往復しました。島村先生は、居眠りだけではなくいびきをかいていたことが問題であったことを伝え、許してくれたそうです。
駒田氏が校友会雑誌に書いた小説の批評も好意的であったなど思い出がいくつか紹介され、盛助氏がきびしいだけではない、生徒から敬意をもたれるような教師であったことがよくわかる作品です。