第56~57回 「盛助」を語る(10)~(11)

旧制山形高等学校(以下、「山高」とします。)の卒業生2名の手により、山高三十年の歴史が物語風に書かれた作品があります。山形新聞に連載されたその作品は、創立から昭和十年頃までを区切りに前編「青春山高物語」として、その後を後編「ふすまの花と共に」としています。この前後編はまとめられて「あゝ乾坤」という本となり、昭和四十七年三月に刊行されました。
学生たちの日々の様子が生き生きと描かれ、数々の思い出話の中には多くの教授陣が登場、もちろん島村盛助氏も何度も登場してきます。それだけ、学生たちにとっては印象に残る先生であったのでしょう。
生徒は握り飯かアルミの弁当だが、山高の先生がたは、お昼に何を食べていたのだろうかと、当時生徒課の給仕だった江口国男さん(俳人)に聞いてみた。彼の話はこうだ。(中略)教官談話室の南西の隅に掲示板があった。その下に郵便受けのような木の箱があり、メモ用紙が備えつけてある。各教官はそれに自分の好きな昼の弁当を書き入れて投ずるのである。十一時半ごろ、これを〆切り、庶務課、生徒課、会計課の給仕諸君が一日交代でこれを取りまとめ、注文する次第である。(中略)島村先生は、よく揚妻のうなぎを好まれたが、糖を抜いてくれと常に念をおされたものだった。「苳三」と号して俳句をよくされたが、少々猫背であごをつき出すようにして歩かれ、話術が実に軽妙であった。(後略)
ちなみに、他の教官の多くは、ジャムパンを好んでいた様子が描かれています。
後編の記述の中に、「苳三伝」と題し、おそらく3回にわたって連載されたと思われる作品が載っています。一つ目は英語の発音を話題にした内容です。
島村盛助先生は英語の主任教授で、英国留学から帰られてから私たちが教わった。それでよく向こうの話をされた。開講のとき、「私の英語は、あちらでは通じなかったよ。動詞も前置詞も形容詞も、間違いない完全な英語なんだがね。」と言って生徒の反応を見るかのように間を置く。私たちが半信半疑でいると、「ところが、上流の家庭ではちゃんと通じるし、舞台俳優、とくにシェークスピア劇専門の役者は私と同じ発音だから一番よく話し合えた。そこで私は悟ったね。私の英語は最も高級な英語であることを。教養がなければ英国人もシェークスピアはわからない。これをキングズイングリッシ(正統英語)といって、国王や貴族が使う最も正しい英語なのだ。私が諸君に教えるのは、この英語であり発音である。(中略)あるとき、山高に文部省から英語係りの督学官が来て先生の授業を視察した。その時、先生が「滑らかな」を「スムーズ」と発音したのを聞きとがめて、校長室に先生を呼んだ。「いやしくも高等学校の英語教官が、スムーズなどと教えては困りますねぇ、正しくスムースと教えなきぁ」と注意した。すると先生はさっそく、図書室からNED、OEDをはじめ英語辞典を一抱えも持って来て「ま、これをごらんなさい」と、その単語の項を示したところ、すべての辞書にスムーズと発音が書いてあり、スムースは一つもなかった。督学官は赤面して、「私の間違いでした。気をつけます」と兜をぬいで引き下がったという。
授業がまた楽しい、先生自身が楽しんでいるようだった。一つの文を、四方八方から眺め、あたかも名工が彫刻を造りあげるように、次々と言葉を変えてしまいに名訳をつけるという風で、古代英語からギリシャ、ラテン語まで飛び出して来たり、さまざまな挿話を入れて、いつの間にか一時間が過ぎる。

英語の授業の一時間が、いつの間にか過ぎてしまうほど集中して受けられることに、うらやましさすら感じてしまう逸話です。山高生たちが、一語も聞き漏らさないようにとしている様子が思い浮かびますね。
使用されたテキストの中では、特に盛助が好んでいたと思われる、シェークスピアの作品についての授業は白眉のものであったようです。そのお話は次回のお楽しみに。
 
旧制山形高等学校の卒業生の方から、特に多くお聞きできたことは、シェークスピアの作品をテキストにしたときの、その授業がいかにすごかったのかというお話でした。
前回紹介した書籍「あゝ乾坤」にも掲載されていますが、今回はその中から、盛助氏がイギリス留学での感想も交えて授業をおこなっている部分をご紹介します。
たとえば、シェークスピアの劇に「ジュリアス シーザー」というのがある。ローマ皇帝のシーザーが、暗殺団に殺される場面で、親友のブルータスもこれに加わっているのを見て、死の直前に言う有名な独白、〈エト トウ ブルート(ブルータスよ、お前もか)の説明など、次のようであった。
「ブルータスと言わずにブルートとあるのに注意したまえ、これはシーザーがこと切れる前だから、息が切れて、タスと言えない感じ、またブルートは「非情な」とか「けだもの」という意味があるので、「畜生め」とか「血迷ったか」といった感じもだしているのである。このようにシェークスピアの天賦の文才は、味わえば味わうほどすばらしい。舞台効果も十分に考えて、あとは俳優の技量しだいだ。だから、シェークスピアをやる俳優は大変な修行がいる。「エト」と「トウ」もローマ語でラテン語だ。つまり教養がなければやれないのである。オックスフォード大学でも、私のユーモアや、古典の引用をただちにわかるのは、よほど勉強した連中で、普通の英国人では、私の話はよくわかるはずがなかった。」

前回引用した部分に、「一つの文を四方八方から眺め」「次々に言葉を変えてしまいに名訳をつける」とありましたが、一語一語の意味するところを背景も含めて追求し、その時のその言葉が意味するもっともふさわしい訳をつけるという、後の辞書の編さん時の逸話にも通じるような言葉に対する姿勢がうかがえる、そんなお話ですね。