これまで、盛助氏の事績についていろいろ紹介してきましたが、最も重要なものとしては、やはり岩波英和辞典の編さん・刊行が挙げられます。
この英和辞典の編さんにあたっては、田中菊雄氏との出会いが転機であったといえます。
出会った当時、田中氏は長岡中学校に勤務していました。この中学校に盛助氏が文部視学委員として視察に行き、田中氏の授業風景を見学したことが始まりでした。盛助氏は帰宅後、妻に「良い先生がいたよ。」と語ったそうです。それから五年ほど過ぎ、田中氏が富山高等学校に勤務していた折に、盛助氏からの山形高等学校(以下、「山高」とします。)への招へいを打診する手紙を受け取ったことから、山高への転勤が決まったそうです。
盛助氏にとって重要な人物となった田中氏でしたが、その田中氏にとっても、盛助氏は重要な人物となっていきました。それは、辞書の編さんの仲間として以上に、尊敬する師としての存在でした。
田中氏が著した「英語研究者のために」という本があります。とても有名な本ですが、この中に、田中氏にとっての盛助氏がどんな存在であったのかが良くわかる部分があります。
「私はもとからStevensonの愛読者であったが、特にVirginibus Puerisqueはかつて高等教員試験の指定書にもなっていた関係で熱心に研究した、実に難解な書で、岡倉先生の詳註も一向私を救ってくれない。外国人の説明をきいてもどうも腑に落ちない。はてはこの書を本当に私の腑に落ちるように講義をしてくださる先生にめぐり合ったら一生その先生に師事しようというような考えをもって、いわば武者修行の遍歴をつづけていたというのが当時の自分の姿であった。山形へ来てからよく学校の行き帰りの道すがら先生といろいろ学界のこと文学界のことなど語り合っていたが、とうとうある時Virginibusの話にふれた。すると先生は「あの本ならここの高等学校ですでに二、三回おしえたことがある」とおっしゃった。では一つ私も生徒と一緒に教室へ出たいからということで、その翌年の春、教務課に頼んで授業時間を調節してもらって一学期毎週四時間ずつ文甲二年のクラスに出て先生の授業を受けることになった。
この時は私のための特講という意味もあって生徒には当てずに先生がずっと講義されたのであるが、その訳がそのまま立派な文章になった。一般に英文をそのまま上から下へと訳し下る、関係代名詞、関係副詞などは適当に切って或いは別文にし、決して下から上に逆行して行く訳し方をしない、しかもそれで立派な日本文になるばかりかあますところなく英文のニュアンスを伝えるという手法、たしかに名人の芸であり、思わず膝を打って感嘆させられたことも幾度かあった。(中略)先生の解釈は文法的にきわめて正確でしかも単語に対するsenseの繊細なことは敬服にたえないものがあった。私はすっかり感激してしまった。多年疑問として残された諸点は一つまた一つ氷解して行った。(中略)私はその頃から影の形に添うごとく先生に師事して多くの感化を受けたが、特に一語一句をもゆるがせにしない良心的な学風、英文を和訳するのに常に国語辞典を引く習慣など・・・いろいろの面でお蔭を蒙った。たとえ大先生と何年何十年同じ学校に在職していても私が島村先生から受けたほどの感化を受けられることは稀である。」
岩波英和辞典にも、編さん者たちの序文として田中氏のものが掲載されていますがその冒頭に、
「菲才を以ってこの大業に参加し、畏敬する島村先生と共につぶさに嘗めた五年有半の辛酸は自分の一生に於ける最も有意義なる修行であった。」
とありますが、田中氏の盛助氏に対する尊敬の念がいかほどのものであったのか、とてもよくわかる一文であろうかと思います。
盛助氏が亡くなったのち、英和辞典の新版出版の際には田中氏が中心となっての作業でしたが、一抹の寂しさを覚えられたのではないかと、想像される方も少なくはないでしょう。