第59回 「盛助」を語る(13)

『大関の里集』という本があります。著者は時野谷滋氏という、昭和十七年に旧制山形高等学校(以下、「山高」とします。)に入学、昭和十九年に東京帝国大学国史学科に進学されましたが戦争で応召され、終戦後に復学、東京大学大学院修士課程を修了された方です。日本制度史を専門とされた歴史学者であり、文部省の教科書調査官を務めるなどもされました。
この本には時野谷氏が著した論文や、勤務先の会報などに寄せた文などが収録されています。その中には山高での思い出があり、島村盛助氏についてのお話もありました。
「昭和十七年(一九四二)四月、私は白木蓮の花咲く旧制山形高等学校の門をくぐつた。そして翌十八年の冬、徴兵適令に達していた大半の級友を軍に送り、十九年七月から富山県の工場に勤労動員された。(中略)黒繻子のガウンを着けた先生方は、それぞれ豊かな個性、独自の風格をそなえておられた。(中略)私共文科甲類四十人の英語を入学から卒業まで担当して下さったのは、S先生、T先生、F先生であつた。S・T両先生は今では恐らく何十版も重ねているあの『岩波英和辞典』の著者である。
S先生がお使いになるテキストは、コンラツドの『ユース』(『青春』)であり、ソローの『ウオルデン』(新潮文庫は『森の生活』と訳していた)であり、ベーコンのエツセイであった。当然のことではあるが、そのどれもが先生自らの思想の一面を物語るものであつた。そして先生の訳はあまりにも美しかつた。「所のそれが」で学んできた私共は、呆気にとられてしまつた。私どもはただ先生の訳を暗誦した。そうでもしなければ、先生の答案は書けなかつたから。先生は課外に俳句会を主宰された。また『万葉集』の講義もして下さつた。もう六十に近いお年であつたが、中々気短かな方で、癇にさわると授業中も時々怒鳴りつけられた。しかも「業突張」とか「出法楽」とか、私どもには辞書を引かないと分からないような言葉で。先生は自ら戯れに「酒飲めど、猿にかも似て」などと自画像を描かれたりされたけれども、ステツキを離すことのない英国流の紳士であつた。だがお宅では渋い結城でくつろいでおられたし、お酒が入ると口三味線で都々逸を低唱される粋人でもあられた。(下略)」

盛助氏の授業については、訳文の美しさの印象のほかに、授業中の厳格な様子について述べている方も多いのですが、この時野谷氏の文章中にも述べられています。そして、「私どもには辞書を引かないと分からないような言葉で。」という部分に、学生たちから見た「島村先生らしさ」のようなものが表現されていると思われます。
また、引用文後半に「酒飲めど、猿にかも似て」とありますが、この一節は「ひつじのとしをおくるうた」という盛助氏の作品からのものだと思われます。この作品は私製はがきに印刷されているもので、平仮名のみで書かれた作品です。未年から申年になろうとしている年末を示しています。また盛助氏自身が明治十七年の甲申年の生まれですが、それから六十年が過ぎ、再び甲申の年を迎える(還暦)ということに対する思いなどが込められていると思われます。
山高での晩年は、戦争中ということもあって、盛助氏の胸中にもさまざまな思いがあったものと思われます。
「昭和十九年(一九四四)六月の末、工場へ出発する前夜、先生のお宅へお別れに参上した。そして前日の校長訓辞のとき、この動員に参加しないものは、卒業させないかもしれない、というくだりのあつたことも申し上げた。(中略)級友の半ばをすでに戦陣におくっていた私どもの気持ちを、先生は熟知しておられた。先生は、後で知ったことだが、二人のお子様をこの時すでに戦場に出しておられたのであった。」
「盛助」を語る(6)で紹介した『壮行賦』と同様、学生たちを戦地へと送りださざるを得なかった盛助氏の心中をうかがい知ることのできる一文です。