宮代町(みやしろまち)ってどんなところでしょうか。ここでは、宮代町(みやしろまち)の公共施設(こうきょうしせつ)や歴史的(れきしてき)なものについて説明(せつめい)をしています。どんなものがあるのか、のぞいてみませんか。 各(かく)ボタンを押(お)すと、その写真(しゃしん)と説明文(せつめいぶん)が表示(ひょうじ)されます。デジタル郷土資料(きょうどしりょう)で紹介(しょうかい)している宮代町史(みやしろちょうし)(通史編(つうしへん)・民俗編(みんぞくへん)・ビジュアル版(ばん))や文化財(ぶんかざい)に関連(かんれん)した記述(きじゅつ)がある場合(ばあい)にはそのリンク先(さき)が表示(ひょうじ)されます。
明治(めいじ)11年(ねん)(1878年(ねん))10月(がつ)26日(にち)、埼玉県(さいたまけん)最初(さいしょ)のキリスト教会(きょうかい)である和戸教会(わどきょうかい)が設立(せつりつ)されました。中心(ちゅうしん)となったのは、和戸村(わどむら)の小島九右衛門(こじまくえもん)や小菅幸之助(こすげこうのすけ)といった人(ひと)たちでした。そして明治(めいじ)15年(ねん)には、小島九右衛門(こじまくえもん)の宅地内(たくちない)に初代(しょだい)の教会堂(きょうかいどう)が建設(けんせつ)されました。 和戸教会(わどきょうかい)が現在(げんざい)の場所(ばしょ)に移(うつ)ったのは昭和(しょうわ)30年代(ねんだい)に2代目(だいめ)の教会堂(きょうかいどう)が建(た)てられた時(とき)からで、現在(げんざい)の会堂(かいどう)は3代目(だいめ)となります。
和戸駅(わどえき)は、東武鉄道(とうぶてつどう)が開通(かいつう)した4か月後(げつご)の明治(めいじ)32年(ねん)(1899)12月(がつ)に開設(かいせつ)されました。 開設当初(かいせつとうしょ)は日光御成道(にっこうおなりみち)ぞいにありましたが、幸手(さって)方面(ほうめん)などへの配送(はいそう)に便利(べんり)な位置(いち)であったことから駅(えき)で取(と)り扱(あつか)う荷物(にもつ)が増(ふ)え、荷物(にもつ)の処理(しょり)や整理(せいり)に支障(ししょう)が出(で)たことなどから、大正時代(たいしょうじだい)に現在(げんざい)の場所(ばしょ)に移転(いてん)しました。
明治(めいじ)6年(ねん)(1873年(ねん))5月(がつ)に、西粂原(にしくめはら)の宝光寺(ほうこうじ)を校舎(こうしゃ)として開校(かいこう)しました。当初(とうしょ)は校名(こうめい)を西條学校(さいじょうがっこう)と称(しょう)していましたが、明治(めいじ)10年(ねん)7月(がつ)に久米原学校(くめはらがっこう)に改(あらた)め、同(どう)19年(ねん)4月(がつ)には和戸(わど)にあった和戸学校(わどがっこう)と合併(がっぺい)しました。 現在(げんざい)の須賀小学校(すかしょうがっこう)の開校記念日(かいこうきねんび)は4月(がつ)16日(にち)ですが、これは大正(たいしょう)5年(ねん)(1916年(ねん))4月(がつ)16日(にち)に学校名(がっこうめい)が「須賀村立粂原尋常小学校(すかそんりつくめはらじんじょうしょうがっこう)」から「須賀尋常高等小学校(すかじんじょうこうとうしょうがっこう)」に改称(かいしょう)し、新校舎(しんこうしゃ)の落成(らくせい)を祝(いわ)って開校式(かいこうしき)が行(おこな)われたことに由来(ゆらい)します。
昭和(しょうわ)22年(ねん)(1947年(ねん))に施行(しこう)された学校教育法(がっこうきょういくほう)により創設(そうせつ)されました。同年(どうねん)4月(がつ)21日(にち)に開校式(かいこうしき)が行(おこな)われ、翌年(よくねん)9月(がつ)には校章(こうしょう)が制定(せいてい)されました。学校創設当時(がっこうそうせつとうじ)は教材(きょうざい)などが不足(ふそく)する中(なか)、小学校(しょうがっこう)の一室(いっしつ)を教室(きょうしつ)として学習(がくしゅう)がはじまりました。教科書(きょうかしょ)も新聞紙(しんぶんし)を綴(つづ)ったようなものであったそうです。 昭和(しょうわ)25年(ねん)には、ようやく小学校(しょうがっこう)に接(せっ)する形(かたち)で新校舎(しんこうしゃ)の建設(けんせつ)が始(はじ)まり、翌年(よくねん)4月(がつ)26日(にち)に木造(もくぞう)2階建(かいだ)て8教室(きょうしつ)の新校舎(しんこうしゃ)が竣工(しゅんこう)しました。この校舎(こうしゃ)は昭和(しょうわ)47年(ねん)(1972年(ねん))に火災(かさい)により焼失(しょうしつ)、現在(げんざい)の建物(たてもの)は焼失(しょうしつ)の翌年(よくねん)に建築(けんちく)されたものです。
円空仏(えんくうぶつ)とは、江戸時代(えどじだい)の修験僧(しゅげんそう)で仏師(ぶっし)でもあった円空(えんくう)が作(つく)った木彫(きぼ)りの仏像(ぶつぞう)です。円空(えんくう)は諸国(しょこく)を旅(たび)しながら、一生(いっしょう)のうちに12万体(まんたい)の仏像(ぶつぞう)を彫(ほ)ることを目標(もくひょう)とし、実際(じっさい)に彫(ほ)り終(お)えたと言(い)われています。訪(おとず)れた土地(とち)にあった木材(もくざい)などを素材(そざい)にして、鑿(のみ)の跡(あと)が残(のこ)ったままの手数少(てかずすく)ない作風(さくふう)が特徴的(とくちょうてき)です。 円空(えんくう)は日光街道(にっこうかいどう)や日光御成道(にっこうおなりみち)などを何度(なんど)も通(かよ)ったことがあるようで、宮代町(みやしろまち)には12体(たい)の円空仏(えんくうぶつ)があります。いずれも町指定文化財(まちしていぶかざい)に指定(してい)されています。
旧(きゅう)須賀村(すかむら)の鎮守(ちんじゅ)で、主祭神(しゅさいじん)は素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祀(まつ)ります。宮代町(みやしろまち)の町名由来(ちょうめいゆらい)の神社(じんじゃ)の一(ひと)つです。江戸時代(えどじだい)には「コノシロミョウジンシャ」とも呼(よ)ばれていたようです。仁治(にんじ)3年(ねん)(1242年(ねん))創建(そうけん)と伝(つた)わります。 昔(むかし)むかし、奥州(おうしゅう)に向(む)かって逃(に)げていた武将(ぶしょう)の姫君(ひめぎみ)が、当地(とうち)で追(お)っ手(て)に追(お)いつかれそうになりました。村(むら)の人々(ひとびと)は、「焼(や)くと人(ひと)を焼(や)いたような臭(にお)いがする」と言(い)われるコノシロという魚(さかな)を焼(や)いて追(お)っ手(て)をくらまし、姫(ひめ)を救(すく)いました。そのことに感謝(かんしゃ)した姫(ひめ)がコノシロにちなんで身代神社(このしろじんじゃ)を祀(まつ)った、という伝承(でんしょう)があります。
明治(めいじ)32年(ねん)(1899年(ねん))8月(がつ)19日(にち)、東京(とうきょう)の北千住(きたせんじゅ)から埼玉(さいたま)の久喜(くき)までの間(あいだ)の約(やく)40キロメートルにおいて東武鉄道(とうぶてつどう)が開業(かいぎょう)しました。当時(とうじ)は、北千住(きたせんじゅ)・西新井(にしあらい)・草加(そうか)・越ヶ谷(こしがや)・粕壁(かすかべ)・杉戸(すぎと)・久喜(くき)の7つの駅(えき)が設置(せっち)されました。7つの駅(えき)の中(なか)の杉戸駅(すぎとえき)が、現在(げんざい)の東武動物公園駅(とうぶどうぶつこうえんえき)です。 杉戸駅(すぎとえき)が東武動物公園駅(とうぶどうぶつこうえんえき)にその名前(なまえ)を変(か)えたのは、昭和(しょうわ)56年(ねん)(1981年(ねん))3月(がつ)16日(にち)のことで、東武動物公園(とうぶどうぶつこうえん)の開業(かいぎょう)に伴(ともな)ってのことでした。
平成(へいせい)17年(ねん)1月(がつ)から使用(しよう)が開始(かいし)された庁舎(ちょうしゃ)です。県産(けんさん)の木材(もくざい)を使用(しよう)した木造(もくぞう)2階建(かいだ)てとなっています。木造(もくぞう)となったのは、宮代町(みやしろまち)の原風景(げんふうけい)に調和(ちょうわ)し、町民(ちょうみん)に愛(あい)され、農(のう)のあるまちづくりにふさわしい、などを目指(めざ)していたためです。 木造(もくぞう)の庁舎(ちょうしゃ)としては国内(こくない)でも最大級(さいだいきゅう)のものとなっています。
昭和(しょうわ)3年(ねん)(1928年(ねん))に、百間小学校(もんましょうがっこう)の川島分教場(かわしまぶんきょうじょう)として設立(せつりつ)され、昭和(しょうわ)33年(ねん)(1958年(ねん))に東小学校(ひがししょうがっこう)として独立(どくりつ)しました。 現在(げんざい)も教室(きょうしつ)として利用(りよう)されている木造校舎(もくぞうこうしゃ)は、昭和(しょうわ)30年(ねん)に建(た)てられたもので、昭和時代(しょうわじだい)の建築物(けんちくぶつ)として貴重(きちょう)であると同時(どうじ)に、現存(げんぞん)で現用(げんよう)の木造校舎(もくぞうこうしゃ)としては県内(けんない)でも古(ふる)いものです。
児童(じどう)の増加(ぞうか)に対応(たいおう)するため、昭和(しょうわ)56年(ねん)(1981年(ねん))に開校(かいこう)しました。 設計(せっけい)は、コミュニティセンター進修館(しんしゅうかん)と同(おな)じ象設計集団(ぞうせっけいしゅうだん)が行(おこな)いました。赤色(あかいろ)の鉄筋(てっきん)2階建(かいだ)てで、宮代町(みやしろまち)に古(ふる)くからある切妻型瓦葺(きりづまがたかわらぶき)農村(のうそん)住宅(じゅうたく)をモチーフに、「学校(がっこう)はまち」「学校(がっこう)は住(す)まい」「学校(がっこう)は思(おも)い出(で)」の三(みっ)つのコンセプトにより設計(せっけい)されました。クラスごとに独立(どくりつ)した玄関(げんかん)があり、半屋外(はんおくがい)の廊下(ろうか)やあるコープが設(もう)けられるなど、個性的(こせいてき)な校舎(こうしゃ)となっています。
昭和(しょうわ)22年(ねん)(1947年(ねん))に施行(しこう)された学校教育法(がっこうきょういくほう)により創設(そうりつ)されました。開校当初(かいこうとうしょ)は独立(どくりつ)した校舎(こうしゃ)がなく、旧青年学校校舎(きゅうせいねんがっこうこうしゃ)(現(げん):中央(ちゅうおう)2丁目(ちょうめ) 新道集会所(しんどうしゅうかいじょ)付近(ふきん))を本校(ほんこう)とし、百間小学校(もんましょうがっこう)や百間小学校川島分教場(もんましょうがっこうかわしまぶんきょうじょう)を分室(ぶんしつ)として使用(しよう)しました。旧青年学校校舎(きゅうせいねんがっこうこうしゃ)には運動場(うんどうじょう)もあり、毎年(まいとし)村民運動会(そんみんうんどうかい)の会場(かいじょう)となっていたそうです。 昭和(しょうわ)26年(ねん)(1951年(ねん))に現在(げんざい)の場所(ばしょ)に木造(もくぞう)2階建(かいだ)ての新校舎(しんこうしゃ)が建設(けんせつ)されました。11月(がつ)23日(にち)に落成式(らくせいしき)が行(おこな)われました。
江戸時代(えどじだい)の百間村(もんまむら)で、組頭(くみがしら)を務(つと)めていた折原清次郎(おりはらせいじろう)の道中日記(どうちゅうにっき)です。天保(てんぽう)12(1841)年(ねん)1月(がつ)から約(やく)2ヶ月半(かげつはん)にわたる旅(たび)の内容(ないよう)が記(しる)されています。行(い)きは東海道(とうかいどう)・伊勢路(いせじ)を通(とお)り、伊勢神宮(いせじんぐう)や熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)をはじめとして、多(おお)くの社寺(しゃじ)や史跡(しせき)を巡(めぐ)りました。帰(かえ)りは中山道(なかせんどう)を通(とお)り善光寺(ぜんこうじ)、草津(くさつ)などを経(へ)て3月(がつ)12日(にち)に百間(もんま)に帰郷(ききょう)しました。旅(たび)で立(た)ち寄(よ)った場所(ばしょ)、拝覧(はいらん)した寺社(じしゃ)、観光地(かんこうち)の見学料(けんがくりょう)、旅籠(はたご)の宿泊料(しゅくはくりょう)、船渡(ふねわた)し賃(ちん)、食事代(しょくじだい)など細(こま)かい旅(たび)の内容(ないよう)が記(しる)されていて、当時(とうじ)の物価(ぶっか)も窺(うかが)い知(し)ることができる貴重(きちょう)な文書(もんじょ)です。宮代町指定文化財(みやしろまちしていぶんかざい)(折原家文書(おりはらけもんじょ))。
昭和(しょうわ)54年(ねん)(1979年(ねん))に前原(まえはら)グランドの建設計画(けんせつけいかく)に伴(ともな)って試掘(しくつ)が行(おこな)われ、遺跡(いせき)があることが確認(かくにん)されました。翌(よく)昭和(しょうわ)55年(ねん)に本格的(ほんかくてき)な発掘調査(はっくつちょうさ)が行(おこな)われ、縄文時代(じょうもんじだい)早期前半(そうきぜんはん)(撚糸文期(よりいともんき))という、埼玉県内(さいたまけんない)で初(はつ)の古(ふる)い集落(しゅうらく)が見(み)つかりました。 写真(しゃしん)の土器(どき)は、称名寺式土器(しょうみょうじしきどき)と呼(よ)ばれ、神奈川県(かながわけん)横浜市(よこはまし)にある称名寺貝塚(しょうみょうじかいづか)から出土(しゅつど)した土器(どき)をもとにしています。土器(どき)の表面(ひょうめん)に、J字(じ)や渦巻状(うずまきじょう)等(とう)の文様(もんよう)が描(えが)かれていることが特徴(とくちょう)です。
島村盛助(しまむらもりすけ)は、明治(めいじ)17年(ねん)(1884年(ねん))8月(がつ)9日(か)に、百間中村(もんまなかむら)に生(う)まれました。 明治(めいじ)39年(ねん)(1906年(ねん))に東京帝国大学(とうきょうていこくだいがく)文科大学英文科(ぶんかだいがくえいぶんか)に入学(にゅうがく)し、大学在学中(だいがくざいがくちゅう)から卒業後(そつぎょうご)しばらくは、多(おお)くの翻訳(ほんやく)や小説(しょうせつ)などを発表(はっぴょう)しました。 大正(たいしょう)9年(ねん)(1920年(ねん))に旧制山形高等学校(きゅうせいやまがたこうとうがっこう)英語科教授(えいごかきょうじゅ)となり、昭和(しょうわ)19年(ねん)(1944年(ねん))に退職(たいしょく)するまで、多(おお)くの学生(がくせい)を育(そだ)てました。 同僚(どうりょう)の田中菊雄(たなかきくお)などの協力(きょうりょく)を得(え)て、昭和(しょうわ)5年(ねん)(1930年(ねん))に刊行(かんこう)した「岩波英和辞典(いわなみえいわじてん)」は、昭和(しょうわ)26年(ねん)に増補改訂版(ぞうほかいていばん)を刊行(かんこう)するなど、多(おお)くの人(ひと)が活用(かつよう)する辞書(じしょ)となりました。
旧加藤家住宅(きゅうかとうけじゅうたく)は、宮代町本田(みやしろまちほんでん)の加藤家(かとうけ)から移築(いちく)・復元(ふくげん)されたものです。加藤家(かとうけ)は江戸時代(えどじだい)の初(はじ)めから明治時代(めいじじだい)の初(はじ)め頃(ごろ)まで、代々(だいだい)蓮谷村(はすやむら)の名主(なぬし)を勤(つと)めてきました。 建物(たてもの)は江戸時代(えどじだい)の文化(ぶんか)10年(ねん)(1813年(ねん))頃(ごろ)に建(た)てられたと考(かんが)えられ、面積(めんせき)は240m2(約(やく)72坪(つぼ))という大(おお)きな住宅(じゅうたく)です。8畳(じょう)の大(おお)きさの部屋(へや)が田(た)の字型(じがた)に配置(はいち)され、主客(しゅかく)の間(ま)やツノと呼(よ)ばれる付属屋(ふぞくや)が設(もう)けられています。屋根(やね)は茅屋根(かややね)で、中央(ちゅうおう)に煙出(けむだ)しが設(もう)けられています。屋根(やね)の両端(りょうたん)にはお守(まも)りとして、それぞれ「泰(たい)」と「寿(ことぶき)」の文字(もじ)が炭(すみ)で書(か)かれています。(町指定文化財(まちしていぶんかざい))
旧齋藤家住宅(きゅうさいとうけじゅうたく)は母屋(おもや)・蔵(くら)・物置(ものおき)の3棟(とう)からなり、周辺(しゅうへん)を屋敷林(やしきりん)が囲(かこ)っています。江戸時代中期(えどじだいちゅうき)から後期(こうき)にかけて、百間西原組(もんまにしはらぐみ)の名主(なぬし)や組頭(くみがしら)を勤(つと)めてきました。 母屋(おもや)(187m2約(やく)57坪(つぼ))は江戸時代(えどじだい)の終(お)わりから明治時代(めいじじだい)の初(はじ)めに建(た)てられたと伝(つた)わり、旧加藤家(きゅうかとうけ)と同(おな)じく部屋(へや)が田(た)の字型(じがた)に配置(はいち)されています。そして奥(おく)に6畳(じょう)の座敷(ざしき)があります。 旧齋藤家(きゅうさいとうけ)の母屋(おもや)から前(まえ)の道路(どうろ)までまっすぐ伸(の)びる通路(どうろ)はケイドと呼(よ)ばれ、建物(たてもの)の配置(はいち)や屋敷林(やしきりん)と共(とも)に、この地域(ちいき)の農家(のうか)の特徴的(とくちょうてき)な敷地(しきち)の使(つか)われ方(かた)を見(み)ることができます。(町指定文化財(まちしていぶんかざい))
旧百間村(きゅうもんまむら)の鎮守(ちんじゅ)で、祭神(さいじん)は多記理姫命(たぎりひめのみこと)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、多記津姫命(たきつひめのみこと)を祀(まつ)ります。宮代町(みやしろまち)の町名由来(ちょうめいゆらい)の神社(じんじゃ)の一(ひと)つです。 創立(そうりつ)に関(かん)する伝承(でんしょう)として、桓武天皇(かんむてんのう)の孫(まご)の宮目姫(みやめひめ)が下総国(しもうさのくに)に下向(げこう)の途中(とちゅう)、紅葉丘(もみじおか)と呼(よ)ばれていた当地(とうち)の紅葉(もみじ)の美(うつく)しさに見(み)とれていると、急(きゅう)な病(やまい)で息絶(いきた)えてしまいました。後(のち)の世(よ)とあり当地(とうち)を訪(おとず)れた慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)がこの話(はなし)を聞(き)き、姫(ひめ)の霊(れい)を祭(まつ)ったものが姫宮神社(ひめみやじんじゃ)であるとされています。 本殿(ほんでん)の基壇(きだん)に正徳(しょうとく)5年(ねん)(1715年(ねん))の銘(めい)が刻(きざ)まれており、近年(きんねん)の文化財調査(ぶんかざいちょうさ)の結果(けっか)、現在(げんざい)の本殿(ほんでん)の建築年代(けんちくねんだい)を示(しめ)していたことがわかりました。
明治(めいじ)6年(ねん)(1873年(ねん))に、西光院(さいこういん)を校舎(こうしゃ)として開校(かいこう)、当時(とうじ)の名称(めいしょう)は進修学校(しんしゅうがっこう)といいました。明治(めいじ)43年(ねん)(1910年(ねん))には現在(げんざい)の場所(ばしょ)に校舎(こうしゃ)が新築(しんちく)されました。 翌年(よくねん)に建(た)てられた1教室(きょうしつ)のみの校舎(こうしゃ)である進修館(しんしゅうかん)は、コミュニティセンター進修館(しんしゅうかん)の名称由来(めいしょうゆらい)の建物(たてもの)ですが、現在(げんざい)、郷土資料館(きょうどしりょうかん)に移築(いちく)され保存(ほぞん)されています。(町指定文化財(まちしていぶんかざい)) 正門(せいもん)近(ちか)くには、大正(たいしょう)15年(ねん)11月(がつ)28日(にち)に寄贈(きぞう)を受(う)けたコンクリート製(せい)のすべり台(だい)があります。現存(げんぞん)する学校遊具(がっこうゆうぐ)のすべり台(だい)としては全国的(ぜんこくてき)にもとても古(ふる)く、国登録有形文化財(くにとうろくゆうけいぶんかざい)となりました。
昭和(しょうわ)57年(ねん)(1982年(ねん))になると、宮代町(みやしろまち)の人口(じんこう)が3万人(まんにん)を超(こ)え、それに伴(ともな)い児童生徒数(じどうせいとすう)も増加(ぞうか)していきました。この状況(じょうきょう)を受(う)けて、昭和(しょうわ)58年(ねん)(1983年(ねん))に百間中学校(もんまちゅうがっこう)から分離(ぶんり)する形(かたち)で開校(かいこう)したのが前原中学校(まえはらちゅうがっこう)でした。 現在(げんざい)、グラウンドとして使用(しよう)しているあたりは、縄文時代早期(じょうもんじだいそうき)の遺跡(いせき)である前原遺跡(まえはらいせき)があります。昭和(しょうわ)55年(ねん)(1980年(ねん))に行(おこな)われた発掘調査(はっくつちょうさ)では、縄文時代早期前半(じょうもんじだいそうきぜんはん)の集落(しゅうらく)という、埼玉県最古(さいたまけんさいこ)の集落(しゅうらく)が見(み)つかりました。
五社神社本殿(ごしゃじんじゃほんでん)は、文禄(ぶんろく)・慶長期(けいちょうき)に建(た)てられました。熊野三社(くまのさんしゃ)、白山(はくさん)、山王(さんのう)の五社(ごしゃ)を一棟(いっとう)の建物内(たてものない)に等間隔(とうかんかく)に合(あ)わせ祀(まつ)ったことから、五社神社(ごしゃじんじゃ)と呼(よ)ばれています。一棟(いっとう)に五社(ごしゃ)を祀(まつ)ったものとして県内唯一(けんないゆいいつ)であり、建築様式(けんちくようしき)としても貴重(きちょう)であることから、埼玉県指定有形文化財(さいたまけんしていゆうけいぶんかざい)とされました。 ご神体(しんたい)は鏡(かがみ)で、5面(めん)の鏡(かがみ)がそれぞれ箱(はこ)に収(おさ)められています。江戸時代(えどじだい)の神仏習合(しんぶつしゅうごう)の様子(ようす)をよく示(しめ)すものとして、箱(はこ)にはそれぞれの神(かみ)の本尊(ほんぞん)である阿弥陀如来(あみだにょらい)・釈迦如来(しゃかにょらい)・千手観音(せんじゅかんのん)・毘沙門天(びしゃもんてん)・不動明王(ふどうみょうおう)の小(ちい)さな仏像(ぶつぞう)が収(おさ)められています。(宮代町指定文化財(みやしろまちしていぶんかざい))
平安時代末期(へいあんじだいまっき)の安元(あんげん)2年(ねん)(1176年(ねん))に作(つく)られた仏像(ぶつぞう)で、阿弥陀如来(あみだにょらい)、観音菩薩(かんのんぼさつ)、勢至菩薩(せいしぼさつ)の三体(さんたい)からなります。ヒノキ材(ざい)を用(もち)いた寄木造(よせぎづくり)で、平安時代(へいあんじだい)に流行(りゅうこう)した「定朝様式(じょうちょうようしき)」と呼(よ)ばれる特徴(とくちょう)をよく表(あらわ)しています。 阿弥陀如来像(あみだにょらいぞう)の胎内銘(たいないめい)から、戦国時代(せんこくじだい)の長禄(ちょうろく)2年(ねん)(1458年(ねん))に修理(しゅうり)が行(おこな)われたことがわかりました。 大正(たいしょう)3年(ねん)(1914年(ねん))に国宝(こくほう)となり、その後(ご)、法律(ほうりつ)の改正(かいせい)によって国指定重要文化財(くにしていじゅうようぶんかざい)となりました。
元々(もともと)は、西光院(さいこういん)の境内(けいだい)にあった東照宮(とうしょうぐう)の御神体(ごしんたい)でした。 この画像(がぞう)は掛(か)け軸(じく)となっていて、桐箱(きりばこ)に納(おさめ)められています。蓋(ふた)の表面(おもてめん)と裏面(うらめん)に墨書(すみがき)があり、箱(はこ)の中(なか)には修復(しゅうふく)した時(とき)の文書(ぶんしょ)が残(のこ)されています。これらから、修復(しゅうふく)が寛政(かんせい)3年(ねん)(1791)に寛永寺(かんえいじ)にあった御絵所(ごえどころ)の絵師(えし)・神田宗庭貞信(かんだそうていさだのぶ)(1765~1800)によって行(おこな)われたと推察(すいさつ)されます。 また、本画像(ほんがぞう)は、風帯(ふうたい)や一文字(いちもんじ)、生地(きじ)の織柄(おりがら)まで軸(じく)を構成(こうせい)する全(すべ)てのものが一枚(いちまい)の絵(え)として書(か)き込(こ)まれる「描表装(かきびょうそう)」という手法(しゅほう)で描(えが)かれています。(宮代町指定文化財(みやしろまちしていぶんかざい))
徳川幕府第(とくがわばくふだい)3代将軍(だいしょうぐん)・徳川家光(とくがわいえみつ)の時代(じだい)に、徳川家康(とくがわいえやす)画像(がぞう)とともに西光院(さいこういん)が拝領(はいりょう)したと伝(つた)えられます。 器形(うつわがた)は丸碗(まるわん)で乳白色(にゅうはくしょく)の釉(うわぐすり)が施釉(せゆう)され、高台付近(こうだいふきん)は化粧掛(けしょうが)け風(ふう)で高台内(こうだいうち)の底裏(そこうら)には「粟田口(あわたぐち)」と刻印(こくいん)があります。葵紋(あおいもん)は体部(たいぶ)に対(つい)で2 か所(しょ)に施(ほどこ)され、その間(あいだ)には草文(そうぶん)が描(えが)かれています。 粟田口焼(あわたぐちやき)は、京都(きょうと)の三条大橋(さんじょうおおはし)付近(ふきん)の粟田口(あわたぐち)から名付(なづ)けられた焼(や)き物(もの)です。この茶碗(ちゃわん)には刻印(こくいん)で「粟田口(あわたぐち)」と刻(きざ)まれることから17 世紀代(せいきだい)のものと考(かんが)えられます。粟田口焼(あわたぐちやき)自体(じたい)が現存数(げんぞんすう)が少(すく)ない焼(や)き物(もの)であることからも大変貴重(たいへんきちょう)です。(宮代町指定文化財(みやしろまちしていぶんかざい))