解題・説明
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元禄6年(1693年)に幕府から出された裁許状で、表面が裁許状、裏面が絵図となっている。笠原沼から用水を引いている百間村(西原村、道仏村、西村、東村)と笠原沼周囲の粂原村、須賀村、爪田谷村との水争いは、記録に残るだけでも5・6回程確認されている。当時、笠原沼は、騎西領落掘(金兵衛堀・爪田谷落掘)が流れ込んでおり、笠原沼下流域の村々の用水を引く溜め池の役割を担っていたため、沼をめぐり上流域の村と下流域の村とで度々争論が起こっていた。今回の争論は西原村、百間村などが道仏橋下に堰を造ったため、笠原沼の水位が上がり久米原村などの田んぼに水が逆流し稲が収穫できなくなったため起こったもの。西原村をはじめとする下流域の村々は、昔から、笠原沼から流れ出る姫宮落堀の道仏橋下に堰を造り田んぼに用水を引いていたと訴えたが、久米原村をはじめ上流域の村々は、騎西領落堀の末にも用水があるため、新たな堰は認められないと訴えた。幕府の裁判の結果、寛文の裁許状に記されている爪田谷村末に用水が無いことから、道仏橋下に堰を造り用水を引くことは当然であると認定した。しかし、橋台については,寛文の裁許状で記してある通り、上流の村が満水であるときは堰を取り払い水を溜めないようにしなければならないため、これを取り除き、川幅の通り堰の長さを4間、沼口から堰の場所まで230間を深さ2尺で掘るようにと求められた。幕府からは万治元年(1658年)頃、寛文12年(1672年)、元禄6年(1693年)、享保6年(1721年)の4回も裁許状が出されており、いずれの裁判でも笠原沼や騎西領落堀から用水を引いている百間村が勝訴している。また、絵図からは、松平伊賀守知行所の岩槻藩領が多く、爪田谷村、高岩村、野田村、寺塚村、久米原村は岩付領、須賀村は百間領と記載されており、岩槻藩領になった時期や須賀村が相給であったことと関係があると推定される。(参考引用:宮代町郷土資料館 平成22年10月『特別展 江戸時代の絵図 図録』、宮代町郷土資料館ホームページ)
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