解題・説明
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この絵図は、内容等から元禄10年(1697年)から正徳元年(1711年)に描かれたものと推定され、江戸時代中期前半のものとしては唯一のものである。三の丸から大手門、大龍寺付近などが欠損しているが、同時代の岩槻城の状況を知る上で貴重な資料である。この時期、百間金谷原組は、岩槻藩小笠原氏の領地であったため、関根家に伝来したものと推定される。江戸時代中期後半の大岡氏時代の絵図とこの中期前半の小笠原氏時代の絵図とを比較すると、城郭内では、堀の役割を持つ沼の水位の違いが確認できる。江戸時代中期前半の絵図では、沼が元荒川に隣接し、城郭主要部から新曲輪に到るまで水色に描かれているが、中期後半の絵図は干上がっており、一部には新しい道も確認できる。また、中期後半の大岡氏時代の絵図には三の丸に居宅(城主の御殿)が、二の丸には御成門があり、二の丸に将軍家の御成御殿があったようであるが、中期前半の小笠原氏時代の絵図には二の丸に居宅や表門が確認でき、城主の御殿が二の丸にあったことが分かる。本丸には「此所先年御成御殿在之由」とあり、以前将軍家の御成御殿があったことも分かる。この他、城下町でも富士宿町付近の道の違いなども確認できる。宮代町指定文化財(関根家文書)。(参考引用:宮代町郷土資料館 平成22年10月『特別展 江戸時代の絵図 図録』、宮代町郷土資料館ホームページ)
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