解題・説明
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【判型】大本1冊。 【作者】荒木其水書・跋。 【年代等】寛保2年(1742)10月刊。[江戸]須原屋茂兵衛ほか板。 【概要】分類「往来物(社会科)」。宝永7年(1710)4月15日公布の『武家諸法度』を認めた手本。本文を大字・4行・無訓で記す。宝永7年法度は、6代将軍・家宣の命により、新井白石が起草したもので、「一、文武の道を修め、人倫を明かにし、風俗を正しくすべき事」以下17カ条より成る。『武家諸法度』本文を漢字・平仮名交じり文に改めたのは、5代将軍・綱吉治下の天和3年(1683)7月25日の法度以後のことで、本法度ではさらに和文化を進めて、読んで理解の行き届く表記とした。前掲『武家諸法度』の寛永12年度の条文によりながら内容を17カ条に整理統合したこと、その中で天和改訂で行われた殉死の禁等を継承し、また諸役に就いた武家が権勢に誇り賄賂に惑わされることを戒める条を新設した。ここに、『武家諸法度』は従来の『諸士法度』も包含するものとなり、大名および徳川家臣団の全般に及ぶ基本法典となった。『武家諸法度』は、この後、8代・吉宗治下の享保2年(1717)3月11日、天和改訂の法度に復されて、12代・家慶までそのまま継承された。本往来が、享保以降の寛保2年(1742)10月の刊行であるにもかかわらず、宝永の『武家諸法度』を底本にするのは、和文化が徹底していることと、第1条に象徴されるように総じて倫理的色彩が強いことなどによるものであろう。 【備考】末尾の筆者識語に「予、芥舟先生の筆妙に学ぶこと年有り、不肖と雖も、聊(いささ)かは得ること有り。因って此の帖を書し、以て梓人の需(もと)めに応ずと云う」とあるが、荒木其水も、その師、芥舟先生も未詳。(小泉吉永 記)
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