近代の狭山丘陵の自然破壊は、大正時代から昭和にかけての貯水池の建設から始まったといえるであろう。二つの貯水池の完成によって狭山丘陵の景観は一変し、首都近郊の観光地として注目され、都心からの観光客誘致を目的に鉄道路線が丘陵に延ばされた。戦後になると1960年代半ばまで、丘陵東部にレジャー施設がつぎつぎと建てられた。1960年代後半から1970年代末までは大規模な宅地開発が続き、丘陵周辺は鉄道を逆に利用して都心に向かうサラリーマンのベットタウンとなった。1980年代は大学等の公共施設、1980年代後半からは法の網の目をくぐるような建設残土捨て場や資材置き場といったミニ開発が横行してきた。これらは雑木林を伐採し地形の改変を伴う一目瞭然の自然破壊であった。
1990年代になると身近な自然を守ろうとする住民の運動が活発となり、それに応えた行政によって緑地公園等の指定や整備が進み、自然環境の保全が図られるようになった。近年狭山丘陵では、大規模開発の気配は一応見られなくなったといえよう。このような経過を経て、今の狭山丘陵は一地域としては他に類を見ないほど豊かな自然が残され、武蔵野の動植物の最後の砦となっている(『狭山丘陵四季物語』1991)。
しかし、一方では、今回の報告の中にもあるように、必ずしも手放しで豊かな自然とは言い難い部分が現れてきた。それを各分類ごとに以下に記す。