先土器文化の誕生

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 「キャサリン台風から一週間ほどすぎた日、私は久々に商いをかねて、笠懸村稲荷山前の赤土の崖へ向かった。……赤土の崖に近づくと、ところどころ断層状に小さくくずれ落ちている。私は、片側から、全神経を崖の断面へ向け、くずれ落ちたブロック状の赤土塊を注視していった。すると、まずくずれた赤土塊の割れ目に、一つの石剥片があるのを見つけた。なおよく見ていくと、赤土の断面に突きささったようにもう一片顔を出しているのを見つけた」
 これは、群馬県新田郡笠懸村大字阿佐見字岩宿にある遺跡の、先土器文化研究の端緒となった石器発見当初の様相を記した相沢忠洋『岩宿の発見』の一節である。
 昭和二十一年(一九四六)、関東ローム層の中から石器が発見された。それまで、日本には旧石器時代の文化は存在しないということが常識になっていたが、この岩宿遺跡の洪積世に形成されたローム層から人類の遺産が発見されたことは、全国に大きな反響をよび、昭和二十四年(一九四九)、明治大学考古学研究室の岩宿遺跡発掘調査以来、全国各地で先土器時代の調査研究が進み、先土器文化研究の画期的盛行をみるのである。
 人類の発生は二〇〇万年前とも三〇〇万年前ともいわれる。この人類の発生から紀元前一万年前までを考古学上では旧石器時代と呼ばれており、そこには数百万年以上の長い時間的経過があった。その間に人類は、たゆまぬ創造力と不断の努力によって大きな進歩を遂げるのである。
 人類の発生は、地質学の分野では洪積世の時代に相当する。この時代には寒冷な氷期と比較的温暖な間氷期が繰り返され、厳しい自然環境の中におかれていた人類は、打製石器を使用しては狩猟・漁撈や採取を主とする自然経済による生活を営んでいた。このころの日本列島は、まだアジア大陸とは陸続きであり、マンモスやヘラジカ、ナウマンゾウ、オオツノジカなどの大形哺乳動物群が南下したり、北上したりしていたが、人間集団の一部も東アジアから動物の群れを追って日本列島に移住してきたものと考えられている。その学術上の成果をたどってみると、昭和六年(一九三一)に兵庫県明石市において洪積世人類の腰骨が発見(明石原人)されたことをはじめとして、愛知県豊橋市(牛川人)、静岡県三ケ日町(三ケ日人)、同県浜北市(浜北人)、大分県本匠村(聖岳洞人)などの石灰岩の地層から洪積世の化石人骨が発見されている。