彼らは金属を知らなかったために、石や骨・木・土などを用いては骨鏃、槍・簎(やす)・銛(もり)、角製の釣針、石錘、磨製・打製石斧、石匕(いしさじ)やスクレイパー(削器)、石椎(せきすい)、石皿、磨石(すりいし)などと呼ばれる道具類を用途に応じて作っていた。また、土偶(どぐう)、土版(どばん)、石棒(せきぼう)、石刀(せきとう)と呼ばれる精神生活の道具も所有していた。
骨角器
石棒
独鈷石
狩猟対象物としては、シカ・イノシシが中心で、タヌキ・アナグマ・ウサギなども多く、クジラの骨も意外に多いのは、湾内に迷いこんだものを捕獲したのであろう。鳥類では、キジ・カモ・ツルなどの冬の渡り鳥がみられ、猟期が限定されていたことが考えられる。狩猟の補助的役割を果たしたのが犬とみられる。すでに縄文早期のころから家犬の埋葬例が知られているので、犬は古くから生活の安定を図るうえで貴重な存在であった。
貝の採集を含む漁撈は、縄文時代に特に発展した生業である。貝塚から記録されるおもなる種類は、ハマグリ・カキ・アカニシ・サルボウ・オキシジミ・シオフキ・ハイガイ・ツメタガイ・アサリ・オオノガイなどであり、アワビ・サザエなどは単なる採集ではなく、潜水による漁法を推測させる。漁撈の対象物としてはクロダイ・スズキ・ボラ・コチなどの内湾性のもの、サメ・マダイなどの湾口性のものや、マグロ・カツオ・ブリなどの外洋性の魚もみられる。河川魚としてはコイ・ウナギなどのほか、魚骨の出土は少ないが、サケ・マス類の捕獲もあった。
縄文遺跡から出土する植物質食料は、クルミ・ドングリ・クリ・トチ・カシ・シイなどの木の実類が中心で、縄文後期から晩期にかけては、とくにドングリ類が多量に出土している。さらに、この時期に西日本の遺跡から、地面に円筒形の穴を穿った木の実の貯蔵庫群の出現が報じられており、木の実が通年の食糧であったことが推測されるとともに、これが農耕生活を容易に移行する生活様式でもあったようである。
なお、縄文時代に植物の栽培(農耕)が存在したとする学説は古くからあったが、具体的に示す栽培穀物類は検出されていない。しかし、近年の調査によって、福岡県板付遺跡や佐賀県宇木汲田(うきくんでん)貝塚などで、縄文晩期の土器が使用されていた時期に、炭化米や水田遺構などが明らかにされており、今後の調査研究が期待されている。
このような生活に支えられた縄文時代の人びとは、個人生活ではなく、集団生活を営み、それぞれ「ムラ」を形成していた。早期のころは、数戸の住居をひとまとまりとする小規模なものであり、長期にわたって定住する例は少なく、季節に応じて一定の範囲を移動して生活していたようである。やがて中期のころになると、海浜や山地に大規模な集落が現れるのである。早期・前期以来上昇を続けてきた生産力を土台として、採集・狩猟・漁撈の生活が相対的に安定期を迎え、各地に大規模な集落が出現したのである。茨城県内では美浦村虚空蔵貝塚・日立市上の代遺跡・石岡市東大橋原遺跡などで、この時期の大規模住居跡群をもつ集落の存在が予測されている。
縄文中期以降の集落拡大の傾向は、後・晩期のころには一層顕著となる。集落の中央に広場をもち、広場をめぐって馬蹄形(ばていけい)に住居の並ぶ「ムラ」の構成は普遍的となる。本県地方でも、このころの遺跡が霞ケ浦を含む利根川水系に集中する傾向がみられ、周知度の高い利根町立木貝塚・新利根村道成寺貝塚・江戸崎町椎塚貝塚・東村福田貝塚・桜村大門貝塚・取手市中妻貝塚などでは、丘陵上に営まれた縄文集落の典型的な姿が想定できるのである。
貝塚の集落址群
(横浜市港北区南堀貝塚)
利根川水系には数多くの遺跡が分布することは前述のとおりであるが、中でも、比較的多量の製塩土器を出土する遺跡の存在することも注目されており、塩の役割と社会的背景を知るうえで重要視されている。