県内の弥生遺跡

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 北九州に成立した農耕文化が北関東地方に波及するのは紀元前後のころと推定されており、西日本に比べて二〇〇年ほどの遅れが指摘されている。県内では、下館市女方(おざかた)遺跡・那珂町海後遺跡・大宮町小野天神前遺跡・北茨城市足洗遺跡などは中期の遺跡として知られ、再葬墓(さいそうぼ)と呼ばれる墓跡も発見されている。後期になると、勝田市東中根遺跡・日立市曲松遺跡・十王町十王台遺跡・常陸太田市瑞竜(ずいりゅう)遺跡などがあげられ、数多くの住居跡や土器などが出土している。なお、岩瀬町磯部遺跡からは石庖丁が発見され、勝田市東中根遺跡では住居跡から炭化米が、大洗町ひいがま遺跡からは鉄製鎌が出土するなど、県内の各地から農耕の普及を物語る遺物が発見されている。

海後遺跡出土の弥生式土器

 守谷町内の弥生時代の遺跡は郷州原遺跡と大日遺跡の二か所が知られるのみで、これまでのところ正確に掌握されていないのが実情である。昭和四十年代前半ころまでの県南地方で明らかにされていた弥生時代の遺跡としては、谷田部町高山遺跡・真瀬熊の山遺跡、水海道市七塚古墳周辺遺跡・内守谷遺跡など数例が知られるのみであった。しかし、昭和四十六年(一九七一)、茨城県教育委員会は開発行為が著しくなると予測できる石岡市・竜ケ崎市・守谷町・取手市・牛久町・古河市などを対象に埋蔵文化財包蔵地確認調査を常総台地研究会に委託して実施しているが、ここでは、守谷町に隣接する取手市と牛久町で確認された弥生時代の遺跡をあげてみよう。
<取手市域>
 台道南B遺跡・長町遺跡・二本松遺跡・山王台遺跡・向原A、C遺跡・古戸遺跡・後田遺跡・大山遺跡・宿畑A遺跡・前畑遺跡・柏原遺跡・五十塚遺跡・中峠遺跡・近竹の代遺跡・白旗遺跡・向山遺跡・神明西脇遺跡・高野田遺跡・水深台遺跡・向渡戸遺跡(二一遺跡)
<牛久町域>
 坂本遺跡・出し山遺跡・城中A遺跡・小馬様台遺跡・牛久遺跡・原山遺跡・堤崎遺跡・中根後遺跡・中道通り遺跡・〓山遺跡(一〇遺跡)
 この調査によって三一遺跡が確認されているが、調査担当者は「弥生時代の遺跡は単独遺跡の数は少なく、土師式土器や須恵式土器を伴う複合遺跡となっている」と報じている。
 この調査は、短期間にごく一部の地域を対象としたもので、確認例からもうかがわれるように県南地方にはなお多くの弥生時代の遺跡が広範に分布することが予測される。
 この調査でみる限り、弥生時代の遺跡の大半が複合遺跡として判断されているようであるが、それが複合遺跡であったとしても、弥生時代の遺物(土器片)の存在が明らかになった以上は、その周辺に弥生時代の人びとの集落や関連遺構の存在を想定しないわけにはいかない。この調査によって、守谷町の南側に隣接し地理的条件を同じくする取手市戸頭地内から多くの確認例をあげていることに注目しなければならない。
 鬼怒川下流域から南に延びる広い沖積地と小貝川流域に発達した沖積地とにはさまれ、南北方向に走る狭長な守谷町の台地にも、数多くの支谷が入り込んでいる。農耕技術の伝播に伴い、乾田の開発と併せて、各支谷に谷津田を拓き、谷津田に続く低湿地を耕起して水田をつくり、水稲栽培を定着化させた集落が点々と存在したことは、想像にかたくない。
 なお、このような農耕社会に入っても、農耕収穫で食糧を確保するまでに至らなかったので、前代と同じく狩猟・漁撈に依存しなければならなかった。また、県内の弥生時代の遺跡からは、縄文時代の伝統的な縄文の文様を施す土器がかなり出土しているが、新しい時代を迎えても、いぜん古い文化を温存していた当地方の保守性が、この時代の一つの特徴ともなっている。

県内各地から出土する弥生式土器