これまでの分布調査によると、守谷町内には同地古墳群(同地)、五十塚古墳群(鈴塚)、清水古墳群(清水)、庚塚古墳(北園)などが明らかにされており、庚塚古墳が小規模な前方後円墳とされているほかは、円墳五基~一〇基ほどで構成される古墳群である。これらの古墳群は、学術調査がほとんど実施されていないため、埋葬施設や副葬品などについて一切不明であり、古墳の性格をとらえることが困難な状況におかれている。
守谷町内に存在する古墳も、弥生時代以来、各地方の社会状勢の変質に伴って出現した古墳文化が、その展開の過程において、この地方の首長(支配者層)およびその一族の奥津城として築造された墳墓なのである。
利根川以北の相馬台地には、市の代古墳(取手市)、大日山古墳(藤代町)、七塚古墳・大塚山古墳(水海道市)などが知られており、それぞれ五~六世紀代に築造されたと推定されている。また、利根川の対岸、我孫子市内でも、これまでの調査研究によって、五~八世紀にかけて継続的に築造された古墳群(我孫子古墳群)の性格なども明らかにされている。
こうした古墳の存在する現象は、大和朝廷の東国支配体制の動向と密接な関連をもって形成されたことは既に指摘したとおりであるが、ただ、特定の支配者(大首長)を想定しうる古墳は見当たらない点に、地域の古墳の特質をあげることができる。それは、地理的環境とあわせて、民衆の生産基盤の弱さが背景になっているものと思われる。
守谷町内および周辺地域における最近の考古学的調査において、古墳時代の集落跡の実態がかなり明確になってきており、後期以降のそれがとくに顕著となっている。相当量の住居跡の存在を思うとき、古墳の密度が極めて少ないことに注目する必要がある。前にも触れたように、造墓に多くの人びとを動員しうる社会基盤がなかったからではあるまいか。そのことは、当地方が、政治的枢要の地域からみれば遠隔の地に位置しており、広汎な地域を支配領域とする特定権力者を出現させるだけの地理的・経済的な条件を満たしていなかったことにほかならないと思われる。
五十塚古墳群(鈴塚)の例などは、埋葬施設がまったく検出されない古墳で構成される特異な古墳群とみられている。おそらく、岩井市岩井の大利根カントリークラブ用地内で確認された木棺直葬という簡便な葬法を用いた古墳の例と同様に、古墳終末期にみられる造墓階層が一般化したころに築造された古墳とみられる。