律令社会の進展

58 ~ 61 / 434ページ
 日本で律令国家が成立したのは、中国大陸の律令制が朝鮮半島を通じ、また、遣唐使によって直接的に日本に伝わり、中央集権国家を志向していた支配層が、これを採用したからである。
 六四五年六月、専横を極めた蘇我氏は、中大兄皇子や中臣鎌足らによるクーデター(大化改新)によって滅亡したが、その翌年の六四六年(大化二年)正月に出された四か条の詔に、中央集権的な政治体制を目指す改革の方針が示されている。その基本方針は、
 (1)皇室・豪族の所有する土地(屯倉(みやけ)・田荘(たどころ))や人民(子代(こしろ)・部曲(かきべ))などを廃止して公地公民制とする。豪族には代わりに食封(じきふ)を給付する。
 (2)行政単位を京・畿内・国・郡・里と定めて、国司・郡司・里長などの地方官を任命する。
 (3)人民に一定量の口分田を分け、租税を徴収する班田収授制を制度化し、戸籍・計帳の作成を義務づける。
 (4)田地の面積に応じ、一定量の絹・絁(あしぎぬ)・布・綿を納める調や仕丁・采女(うねめ)などの新たな税制を定める。
とある。
 大化改新による地方行政制度の確立に伴って、守谷町内を含め、小貝川および鬼怒川以南の地域は、いわゆる下総国と呼ばれる行政区に属するようになる。それは、現在の茨城県域の結城郡・猿島郡・北相馬郡の地域にあたる。
 下総国は葛餝(かつしか)・千葉(ちば)・印旛(いんば)・匝瑳(そうさ)・海上(うなかみ)・香取(かとり)・埴生(はにう)・相馬・猨島(猿島)(さしま)・結城(ゆうき)・岡田(おかだ)(豊田)の評(のちの郡)に分かれ、国府は葛餝評内(現在の市川市国府台付近)に置かれている。『延喜式』や『倭名類聚抄』によれば、下総国の行政区画は一一郡九一郷に分かれていたことが知られるが、茨城県内に属する四郡をみていくと、豊田郡四郷(大方(おおかた)・岡田・飯猪(飯沼か)・手向(たむけ))、結城郡五郷(茂治(もろ)・高橋・結城・小埆(小涌(こわく))・餘戸(あまりべ))、猨島郡七郷(葦津(あしづ)・石井・塔陁(とうだ)・八俣(やまた)・高根・色益(しかや)・餘戸)、相馬郡六郷(大井(おおい)・相馬・布佐(ふさ)・古溝(こみぞ)・意部(おぶ)・餘戸)の二二郷があげられている。いま、これらの郡および郷の範囲を現在の行政区画のうえから比定考証することは困難な点が多い。守谷町内について想定できることは、水海道市の南部を占める菅生沼付近がおおむね相馬郡の西方を画するとみられることから、守谷町内から取手市東部にかけては相馬郷とすることが妥当のようである。

律令時代の下総(『市川市史』)